#118 国語力と減衰力
幼稚園でも小学校でも中学校でも高校でも、必ず作文や読書感想文の類があった。今でこそライターを名乗っているものの、なにかを書いたり表現したりすることは好きでも得意でもなかった。
宿題や課題は、先生が好みそうなお決まりのパターンで提出し、成績はいつも並。なにかの賞をもらったこともない。国語の授業も特別好きでも得意でもなかった。
「――部分で主人公はなにを思ったでしょう」
「この小説を書いた時の作者の気持ちを答えなさい」
こうした問いはナンセンスもいいところ。そんなお気持ちをまったくの他人が推し量れるはずもなく、そもそも授業で取り上げるのは作品のごく一部分だったりする。とても乱暴な取り組みだと思う。
算数は論理で、社会や理科は知識で、体育は筋力で、音楽や図工は技術で、先生はその実力を子どもに披露することができる。それらはお手本となり、「おぉ」とか「へぇ」とかなるけれど、国語にはそれがない。漢字をよく知っているとか、古文を読めたりすることは知識ではあるものの、そこでもやっぱり紫式部のお気持ちを問われたりする。
正解なんてないのに正解を求められ、点数をつけられるのだから、国語が嫌になる生徒がいるのは当たり前。先生がさらさらっと美しい読書感想文を書き上げ、圧倒的な日本語力を見せつける……なんて状況にはお目にかかったことがない。
国語という科目には掴みどころがない。でもだからこそ、誰でもライターを名乗ることができる。
エンジンをチューニングした成果は、パワーやトルクといった数値で示すことができるけれど、サスペンションでそれを明確にするのは難しい。足まわりにはそれぞれ流儀や主義や哲学があって、減衰力には正解も不正解もない。だからこそ、商売がしやすい。いろいろなことがふわっとしているサスペンション屋さんとライター業は、どこか似ている。
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