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#155 Kevin James Schwantz

「転倒ばかりでイヤになった」

 ケビン・シュワンツはこう言い残し、モトクロスライダーとしての能力に見切りをつけると、1984年からロードレースに転向した。その2年後には世界グランプリにスポット参戦を果たし、さらに2年後にはワークスライダーとしてフルエントリーを開始。そして、その初戦となった日本GPでいきなり優勝を果たしている。

 この急激なまでのキャリアアップは、コースで見せる爆発的な速さと同じく凄まじいものがある。その代償として、モトクロスの時と同じように幾度もの転倒を重ねたが、今度はレースに対するモチベーションを低下させることはなく、世界中のサーキットでドラマチックなレースシーンを演じ続け、多くのファンを魅了したのである。

USヨシムラの抜擢

 ケビン・シュワンツは1964年6月19日、テキサス州ヒューストンのペイジという町で生まれた。母親と叔父がバイクとモーターボートを取り扱うショップを経営しており、その叔父自身もプロのダートトラックレーサーとして活躍。父親もトライアル競技に出場するなど、ライダーの資質を磨くには絶好の環境だった。

 ただし、多くのアメリカンライダーとは異なり、シュワンツはダートトラックにはそれほど興味を示さなかった。どちらかといえばトライアルやオフロードを好み、17歳になるとプロライセンスを手にいれて本格的にモトクロスレースの世界に足を踏み入れている。

 ところが、土の上では目立った成績を残すことはなく、それどころか自分の才能を疑わざるを得ないほど、走るたびに転倒を繰り返したという。

 そんなシュワンツの姿を見た友人のひとりがロードレースに誘ったことが転機となった。最初のうちはモトクロッサーにオンロード用のタイヤをつけただけのマシンではあったが、すぐにその魅力にとりつかれ、1984年にヤマハFJ600とRZ350を手に入れてからは毎週末のようにレースに参戦し始めた。排気量のハンデもかまわず、出られるレースにはすべて出たシュワンツは、一度の週末で8回の優勝を記録したことがあるほど瞬く間に頭角を現し、ロードレース界にその名を浸透させていった。

 とはいえ、まだアマチュアともセミプロともつかない多くのレーサーのひとりに過ぎなかったわけだが、この年のシーズンオフにシュワンツはレース人生を左右するひとつのチャンスをものにする。それがUSヨシムラのトライアウト(新人発掘のためのオーディション)だった。当時のヨシムラは、日本でも活躍したエースライダー、ウェス・クーリーに代わるライダーを探していた。むろん、本来ならば20歳のアマチュアライダーに出る幕はない。

 ところが、その走りに才能の片鱗を感じていたオートバイ雑誌の編集長ジョン・ウルリッチがシュワンツをヨシムラに推薦。ひとまず、テストを受けることが認められたのだ。テストとはいえ、その方法は少々荒っぽい。ウィロー・スプリングで開催されたレースに呼ばれると、シュワンツはいきなりヨシムラチューンのTT-F1とスーパーバイクに乗せられたのだ。

 レース前日、ウルリッチが個人的に用意してくれたGS1100でビッグバイクのパワーを体感できていたとはいえ、ぶっつけ本番で臨んだこのレースでシュワンツは優勝。しかも、クーリーが持っていたタイムを上回ってしまったのである。

 かくして、USヨシムラとの契約に成功したシュワンツは、翌1985年からプロライダーとしてAMAスーパーバイク選手権に参戦することが決定。無名の若者が一夜にして、メーカーとコンストラクターの看板を背負うトップライダーへと変貌したのだった。

 シュワンツは、「契約できるなんて夢にも思って無かった。でも、ヨシムラのマシンに乗れたのなら友達に自慢できる。 それだけで十分満足な時間になった」と、この時のことを語っている。それまでのキャリアを考えれば、おそらく正直な言葉だったろう。

 ひとつラッキーだったのは、レース形式でテストが行われたことが挙げられるかもしれない。前を走るライバルを追いかける時、天性のスプリンターっぷりを発揮するシュワンツにとって、レースはそのポテンシャルを知らしめる最高の舞台だったからだ。市販マシンで競うローカルレースであっても、500ccのワークスマシンで世界タイトルを争うレースであっても、抜けるところでは必ず仕掛ける。そんな攻めのスタイルは生涯変わることがなかった。

 ところで、当時から巧みなスライドを見せていたシュワンツだが、自身ではライバルとされるアメリカンライダー達、つまりダートトラックで培ったテクニックを応用するウェイン・レイニーやエディ・ローソンらの走りとは根本的に異なると考えていた。ダートトラック上がりのライダーはマシンがスライドし始めるとスロットルワークでそれをコントロールしようとするが、オフロード経験が豊富なシュワンツはスロットルをできるだけ全開にしたまま、手や足、そして体重移動によってマシンの挙動を安定させると自ら語っている。

 事実、それを裏付けるようにシュワンツは手足の長さを存分に活かし、股下でマシンをヒラヒラと遊ばせるようなライディングスタイルで注目を集めていた。そして、スライドしてもおかまいなしにスロットルを開け続けるライディングはリスキーでもあったが、そのスタイルを引退するまで大きく変えようとはしなかったのである。

 なぜなら、それこそが速さを引き出す源であり、たとえ瞬間的だとしてもそれを印象づけることこそが、シュワンツ最大のモチベーションになっていたからだ。

 もしも2位や3位で満足することを知っていれば、シュワンツはあと何回かタイトルが獲れたのだろうか。あるいは、もう少し長くグランプリ生活に身を置くことができたのだろうか。それは誰にもわからないが、多くのファンはエネルギッシュなライディングにシュワンツらしさを求め、シュワンツもまたその期待に応え続けてくれたことは間違いない。

スポット参戦でみせた大器の片鱗

 鳴り物入りでUSヨシムラに加入したシュワンツが、すぐにAMAでその才能を開花させたかといえば意外にもそんなことはなく、しばらくはやや低調なシーズンを送ることとなった。

 デビューイヤーとなった1985年は、開幕戦のデイトナこそ、予選でフレディ・スペンサー、フレッド・マーケルに次ぐ3位のグリッドを得て脚光を浴びたが、決勝は第1コーナーにもたどり着けずリタイヤ。その後は格下レースでいくつか勝利を収めたに過ぎず、“期待のルーキー”という周囲の注目に十分応えたとはいえなかった。

 仕切り直しとなった1986年。やはり開幕戦となったデイトナでは、グランプリ開幕前の肩慣らしとして参戦したエディ・ローソンを追いかけ2位を獲得。世界チャンピオンに迫ったことで自信を深めながらも、後は転倒とケガが重なり、シーズン中3レースでしか結果を残せなかったのだ。

 ただし、この年のシュワンツは新たなモチベーションを見出しつつあった。それが世界グランプリへのスポット参戦である。当時開催されていた英米マッチレースのメンバーに選ばれ、初めてイギリスを訪れたシュワンツは一時トップを快走。それを見ていたバリー・シーンが仲介する形でオランダ、ベルギー、サンマリノの500ccクラスに、ヘロン・スズキからエントリーすることになったのだ。

 もともとケニー・ロバーツに憧れていたシュワンツにとって、グランプリは最終的な夢の舞台。もちろん断る理由などあるはずもなく、このチャンスをものにしようとしたがオランダでは転倒、ベルギーでも転倒して骨折。最終戦のサンマリノでようやく10位完走を果たすという内容で、その野望とは程遠い成績しか残せていない。

 そして、USヨシムラも3年目となった1987年。結果を残さなければ後が無くなりつつあったシュワンツは、幸先よく開幕戦のデイトナで流れをつかもうとしたが、レイニーに先行されるとまたもや転倒して骨折。その後もレイニーの後塵を浴び続けるという苦しいシーズン序盤を余儀なくされた。

 ところが、強化されたスズキのサポートが実を結び、ようやく第4戦でAMA初勝利を挙げると、残りはシュワンツの独壇場を化した。結局、シーズン最多の5勝を達成。タイトルこそレイニーに譲ったとはいえ、その速さをあらためてアピールすることに成功したのだった。

 前年に引き続き、スポット参戦のチャンスが与えられたグランプリでも光る走りをみせた。スペインGPでいきなり5位入賞を果たすと、イタリアGPでは8位。さらにフランスGPでは転倒によってペダルを破損したまま最後尾から猛烈な追い上げを開始。オーバーペースがたたって途中でコースアウトしたものの9位でゴールし、観客を熱狂させたのだった。

 この頃になるとスズキも積極的にシュワンツを500ccのテストに参加させ、次世代のライダーとして育てていた。しかしながら、想定を上回るポテンシャルを目の当たりにしたスズキは、大局を考えると1988年に照準を合わせてマシンを刷新した方が得策だと判断。シーズン途中ながらグランプリから一時撤退し、開発に専念することを決定したのだ。

 もちろん、突然マシンを取り上げられた格好のシュワンツは不満を漏らしたが、そのフラストレーションをAMAの連勝で発散。その一方、スズキとともに新型500ccマシンの開発とテストに明け暮れ、新たなシーズンの準備を進めていた。結果、シュワンツ&RGV-500Γという新たなパッケージが、1988年のグランプリに旋風を巻き起こしたのだった。

シュワンツが最も輝いた1989年

 1987年、AMAスーパーバイクのタイトルは取れなかったもののシュワンツの心は完全にグランプリに傾いており、RGV-500Γもまたシュワンツ抜きで完全なポテンシャルを発揮させることは難しかった。そこでスズキはシュワンツを世界グランプリにフルエントリーさせることを決定。ペプシという新たなスポンサーも得て、それまでにないほどのサポート体制を作り上げた。

 本格的にロードレースへ転向してからわずか4年目にして手に入れた世界最高峰クラスへのフル参戦。シュワンツは、その道を切り開いてくれたヨシムラに対するお礼と置土産も忘れなかった。

 世界グランプリの開幕を間近に控えていたが、デイトナ200マイルレースにUSヨシムラからスポット参戦すると、それまでの苦労がウソのように終始安定した走りを続け、圧倒的な速さでポール・トゥ・ウインを達成してみせた。後にグランプリでも何度も見られることになる独特のスタンディングガッツポーズが、この時初めて披露されたのである。

 そして、その名を一躍広めたのが、1988年の世界グランプリ開幕戦になった鈴鹿だ。シュワンツはレース序盤からワイン・ガードナーを相手に激しいバトルを繰り広げたばかりか、前年の世界チャンピオンからミスを誘い出すほどのプレッシャーを与え、いきなり優勝をさらってしまったのだからそのインパクトは強烈だった。

 結局、西ドイツGPでも勝利を挙げ、ランキング8位を獲得。ノーポイントレースも6回を数えたが、その儚ささえも魅力的なキャラクターとして人気を集めていた。

 この時、すでに定着しつつあった「優勝か、転倒か」というアグレッシブなイメージは引退する時までつきまとい、なかなかチャンピオンに手が届かない最大の要因とされたが、速さと安定性がもっとも高い次元でバランスしていたのは、意外にもフル参戦2年目の1989年のことだ。

 この年、今度はレイニーとの死闘を制し、やはり開幕戦で優勝するとシーズン最多の6勝を達成。ポールポジションの獲得も9回に上り、そのほとんどでコースレコードを更新した一方、ノーポイントのレースも優勝回数と同じ6回という浮き沈みの激しさだった。

 データ的には、それまでのシュワンツとなんら変わることなく、相変わらず一か八かのレース展開に見えた。とはいえ、ポイント獲得に失敗した6回のレースのうち、主要なライダーによるボイコットが1回、マシントラブルが3回、シュワンツ自身のミスによるノーポイントは2回に留まり、ランキングを4位まで上昇させたのだ。

 確かにランキングトップのローソンと同3位のクリスチャン・サロンが全戦でポイントを獲得し、2位のレイニーは1回のノーポイント(ボイコットレースを除く)で踏みとどまったことを考えるとシュワンツには反省すべき点が残されていたかもしれない。

 ただし、それをおぎなって余りあるスピードが浮き彫りになったという意味では、この1989年がシュワンツのライダー人生におけるひとつのピークだったのではないだろうか。

燃え尽きるまで走ったライダー人生

 そんなシュワンツも、1990年からは徐々に長いシーズンを見据えた走りを意識し始めていた。そして、時に守りながら走り続けるスタイルは、シュワンツにとってかつて経験したことのないプレッシャーになっていたのかもしれない。

 この年のスウェーデンGPまでレイニーと5勝ずつを分け合い、ランキング2位をキープしていたシュワンツは、多くのライダーがタイトルの可能性を手放したアンダーストープの魔力に屈し、レース序盤であっさりと転倒を喫すると完全に緊張の糸を切らした。続くチェコGPでも転倒し、自らの手でタイトル争いに終止符を打つという脆さを見せたのである。

 以降のシュワンツは、1991年に5勝してランキング3位、1992年は1勝にとどまるもランキング4位と安定感は見せつつも、自身のミスにしろ、ライバルに巻き込まれるにしろ、肝心な場面で致命的な転倒をしてしまうのだった。それだけに留まらず、転倒によるダメージは確実に体に蓄積され、ライディングの要でもある右手の自由を徐々に奪っていった。

 それでもシュワンツを奮い立たせたのは、その間、ずっとチャンピオンの座を守り続けたレイニーの存在に他ならない。AMA時代からレイニーと対峙することで気力を充実させてきたシュワンツであったがゆえに、1993年のイタリアでレイニーに降りかかった悲劇(転倒による下半身不随)は、レースの意味を考えさせるほど、大きな精神的なダメージを与えていた。

 しかしながら、この年の前半戦で築いたシュワンツの安定感は目を見張るものがあり、ようやく手に入れたタイトルはレイニーのアクシンデントに乗じたものではなく、チャンピオンにふさわしいものだった。

 1994年以降はいよいよ体の自由が効かなくなり、500ccの2ストロークマシンを操る上で命綱にもなる右手を常にかばいながら走行。その様はあまりにも痛々しいものだった。やがて精神的にも肉体的にも限界に達した1995年半ばに引退を発表。天賦の才に恵まれたスピードスターはこうして静かにグランプリを去っていったのだ。

 グランプリ通算25勝、ポールポジション獲得数29回、ファステストラップを記録すること26回。誰よりも早くスロットルを開け、誰よりもブレーキングを遅らせ、誰よりも深々とバンクさせるライディングは、最速にこだわり続けた狂気の走りとして、今なお鮮烈な印象を残している。

(初出:『ライディングスポーツ』2009年8月号)

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