#175 10億円の詐欺から350円のチョロQまで
時々、億単位の詐欺が起こる。先日も持続化給付金をめぐる10億円規模の事件があり、主犯格とされる人物が海外で捕まった。その人物は、逃亡先でもエビだったか、ナマズだったかの養殖にまつわる投資話をもちかけ、なにか事を起こそうとしていた。それが事業だったのか、詐欺の延長線上なのかは知らない。
この手の話でいつも思うのは、当の本人のフットワークの軽さだ。そこに感心する。2億円くらいで見切りをつけるわけでもなく、その後じっとしているわけでもなく、扱う品目や対象を変えながら攻め続けるバイタリティはたいしたもんだな、と。
もっとも、雑誌作りもこれに似たところがある。少し前まで発行部数は粉飾に近く、実売部数なんて不透明そのもの。広告主からの出稿料を頼りに数年をしのぎ、いよいよ収支がどうにもならなくなったら休刊という名の廃刊にして、翌月からはしれっと新しい雑誌を立ち上げる。ざっくり言えばこの繰り返し。春と秋に改編するテレビもほぼ同じ仕組みだ。
ことバイク雑誌に関しては、頼るべき広告主の出稿料がいかにも頼りなく、それゆえ実売部数もそれなりに上げなきゃいけないところが、幸か不幸か健全といえばちょっと健全。だけど、しがみつかなきゃいけないところにみんなが寄ってたかってしがみつくから、おもしろいものなんてそうはできない。
規模の大きな詐欺グループには頭の切れる指示役がひとりいて、売れる雑誌には頭の切れる編集長がひとりいる。犯罪とビジネスという方向性の違いはあっても、カリスマがいるから成り立つ。もしもカリスマの力が落ちても、その息が掛かり、なおかつそこそこキャラの立つ片腕がいたなら2世代、うまくすれば3世代は組織を維持できるかもしれないが、せいぜいそれくらい。『クラブマン』は小野かつじさんのものだった。
僕は京都にある寺で生まれ育った。創建されて約1250年が経つのだが、同様の寺院はいくらでもある。浮き沈みの激しい世の中において、それらが長く在り続けたのは、本尊というカリスマの存在に他ならない。住職が変ったからといって、千手観音だった本尊が弥勒菩薩になったり、薬師如来になったりはしない。カリスマがカリスマとして守られ、だからひとは集う。
大切なことは要するに、器はなんであれ、その中身が他では代えの利かないオリジナルであることだ。そこに行かなければ、それを手にしなければ得られないなにかがあるかどうかに尽きる。二体と同じ本尊はない。
これから先、信仰心はどんどん薄れていくから寺院とて存続は難しい。雑誌はもちろんもっと難しい。というか20年前から難しかったはず。少なくとも雑誌は、広告出稿料を収支計算の中に見込んではいけない。ボリュームなんてたぶん4折(64ページ)ほどもあれば充分。能力のある数名で、中身のあるものを誠実に作れば成り立つはずなのだ。
ところで今日、急にチョロQが懐かしくなって、数台をアマゾンでポチッとな。40年前は、たしかどれも350円だった記憶があるのだけれど、今時は安くて1699円、高ければ3000円ほどもする。でも、昔と違って趣味アイテムとして成立するクオリティになっている。雑誌もそういうことだと思う。
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