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#500 原稿のロバスト性

3500文字という指定に対し、ワンチャンいけんじゃね?と思って6500文字の原稿を送ってみたんですけどね。やっぱりダメだったので、プロローグ的な部分とエピローグっぽい部分を景気よく削り(それでもだいぶ超過だけど)、誌面の方にはどうにか収めてもらった記事がこちらです ↓

なにかが失われても耐えうる設計だったり、外的な変化に対して影響を受けにくい性質を「ロバスト性」と言いますが、ちょっとやそっとのことで崩れるような原稿ではいけません。その原稿が支えるフリーランス生活も同様です。人はどうなんでしょうね。頑強だったらいいってものでもなさそうです。

せっかくなのでディレクターズカット版も下記に残しておきます。

「イケマチはな、絶対私のことをなんにもできへんヤツって思ってるねん。だからここで誤解を解いとかなあかん」
「でも、実際昔のお前は全部イケマチに頼って、全部やってもらって、結局キレて」
「あの時のワカバヤシの苦労はね、全部身になってるよ、間違いなく」

 6月のとある土曜日。若林葉子(元編集長)と神尾編集長、そして池町佳生は羽田空港を臨む公園にいた。梅雨入り前の爽やかな青空の下、昔のこと、それぞれを取り巻く今の環境、少し未来の話へと話題が移り変わっていく。のんびりとした時間が流れ、穏やかな空気が3人を包んでいる。

 神尾の言う「キレて」とは、若林と池町の間に生じた、ちょっとしたわだかまりを指す。若林が初めて海外ラリーに出場したのは、2009年のモンゴルラリーだが、その時、一緒に組むことになっていたのが池町である。池町は2輪でも4輪でも輝かしい実績を残す競技者だったものの、その頃はプロとしての活動に区切りをつけ、サラリーマン生活に軸足を置いていた。若林のペアになることを承諾したのは善意や応援の気持ちが下地になっており、したがってギャラも発生していない。

 とはいえ、若林と池町のスタンスはまったく異なっていた。当然だ。ラリーどころか、運転すらまだ頼りない若林と、ダカールラリーでクラス優勝も果たしている池町とでは、言語が違う。池町の言う「最低限」は、若林にとっての「本格的」であり、池町にとっての「肩慣らし」は、若林にしてみれば「完全なるコンペティション」だった。その違いは気持ちだけでなく、時間や資金に対する認識にも表れ、周囲にも少なくない影響を及ぼしていく。結局、モンゴルラリーを数か月後に控えたタイミングで、若林と池町はコンビを解消することになり、以来、それぞれの時間が交わることはなかった。

 そんな2人が今春、九州で開催された国内ラリーの会場で再会した。この15年の間に、「なんにもできへん」かった若林はモンゴルラリーに6度出場し、ダカールラリーではナビも経験。一方の池町は、アジアクロスカントリーラリーで残した幾度かの総合優勝(本人の言葉を借りれば「年に1回の遊び」だと言う)もさることながら、今年果たしたダカールラリーへの復帰が大きな話題を呼んだ。

 かつて池町は、本誌で『デザートシンドローム~地球は大きな砂場だ~』というコラムを持っていたことがある。その連載もまた、’09年に終わりを迎え、池町の言葉も歩みも長らく途絶えていた。そこで今回、あらためて時間を巻き戻し、そして進めてみたい。

六甲山と富士山で学んだスキル

 ライダーとしては24年振り、52歳にしてダカールラリーのスタートラインに立った池町佳生は、英才教育を受けたコンペティターではない。バイクに乗り始めたのは高校に入ってからのことで、RZ50で六甲を駆けまわり、その後、TS200Rでダートを走り始めた。オンロードもオフロードもブームだったあの頃を思えば、その両方に手を出したことは、さほど珍しくない。ただしちょっと変わっていたのは、ワインディングや林道から外れ、等高線をなぞるように山へ分け入ったことだ。

「山岳部の友達とニゴマン(2万5000分の1)の地図を持って、山を縦走し始めてね。走って越えられなければ、そこでバイクを分解して背負って上がり、また組み立てて走り出す、みたいな遊び。スイングアームくらいまではバラせる工具をいつも持ってたなぁ」と事も無げである。

 池町が生まれ育った神戸は、北に山を見上げ、南に海を見下ろす土地だ。その間で刻々と移り変わる太陽や風、温度の変化を感じ取り、五感のすべてを使って時間と方角を把握する癖がいつの間にか身についていた。それが、後の海外ラリーで幾度となく自身を救う、第六感としか言いようのない感覚に繋がったのではないか、と自己分析する。

 そんな池町が、初めて2輪の競技に参加したのは、’90年のことだ。先の山岳部仲間と国内ラリーにエントリーし、好成績を収めた友人は翌年の大きな大会へ無料で招待されることになった。その羨ましさも手伝って徐々にオフロードの世界へのめり込んでいく。高校を出てほどなく、千葉県に職を見つけた池町は、そこから毎週末のように富士山に通い、ライディングのスキルを磨いていった。

「もちろん、今はダメですけどね。あの頃の富士山は結構自由に出入りができたし、ラリーのいい練習になった。日本の中で、あそこほど砂漠の走り方が学べるところはないと思う」

 それから数年経った’94年の夏、今度は初となる海外ラリー「オーストラリアンサファリラリー」に出場し、日本人最高位の総合4位という好成績でゴールしてみせた。池町がやはりちょっと変わっていたのは、そのリザルトを引っ提げて意気揚々と帰国する道を選ばなかったことだろう。ダーウィンで仲間を見送った後、ラリー車両で、そのまま旅に出発。広大な土地をツーリングで巡る計画を立て、実行した。

「仕事を辞めていたから時間だけはあって、ワーキングホリデイを使えば、しばらくは居られるなぁと、あんまり深く考えてませんでしたね。でも、オーストラリアって200~300km毎にロードハウス(ガソリンスタンドやホテルがある場所)があるだけで、それ以外は本当になんっにもない。だから、走っている間もめっちゃいろんなことが頭に浮かんでは消えていくんですよ。家のこととか友達のこととか、帰ったらどうしようとか。その時にふと、それまでは漠然としていたパリダカへの憧れを3年以内に実現するってことだけは決めました」

 生来のコミュニケーション能力の高さで時々アルバイトをしては生活費を稼ぎ、同時に英語も身につけながら旅を続けた池町は、’95年の春に帰国。期間工をしながらお金を貯め、少しずつチャンスを手繰り寄せていった。

生活の延長線上にパリダカを置く

 一般的にラリーストという人種は、それを知らない者にとっては豪放磊落なイメージで捉えられる。引き締まった筋肉質の体躯を持ち、肌は浅黒く日に焼けている池町にもそれが漂う一方、驚くほど手堅く、決して勢いに任せない用意周到な一面がある。
 
 たとえば、パリダカの初出場は’97年に実現するのだが、そのずっと前、’93年の時点で、いつかに備えて、スタートと最初のSSを視察するために現地まで行っている。そして’96年にはカメラマンが運転するプレスカーのナビとして同行。競技の最前線で下見を済ませるなど、常に先を見据えて行動しているのだ。夢、浪漫、情熱といった心模様が先行しがちな2輪ラリー界において、池町の着実性は稀有なキャラクターと言っていい。そしてこれは、パリダカ本番でもいかんなく発揮されることになる。

「一回目は無我夢中。でも意外と走れたなっていうのも正直なところ。よく、秘訣みたいなものを聞かれるんですけど、多くの日本人はラリーというものを短いスパンでしか捉えていないんです。僕より速い人も上手い人もたくさんいて、モトクロス出身のライダーなんかだとスピードでは到底かなわない。でも、みんなどんどん自滅していくんです」

 池町は、ラリーを生活の延長線上のように捉えている。初のパリダカを前に、誰よりも先にパリ入りしたのもその一環だ。バイクを早く受け取って整備に万全を期しただけでなく、現地の風邪をもらって耐性を作り、食と眠と便のすべてを順応させて競技に臨んだのである。それらが伴わないと体調不良をきたし、集中力を途切れさせ、クラッシュを呼び込むと考えたからだ。

「センシティブな人が多いですよね。耐ストレス性が低いというか。テント横でエアツールをがんがん使われても寝られるくらいじゃないと、20日間におよぶ競技では体力も神経も持たない。それに、向こうの人は食事やシャワー、給油で並んでいても割り込みとか全然平気でしてくるでしょ? そういう場面でコミュニケートする力を持っていることも大切。受け流すところ、主張するところのメリハリが必要だし、機械的なトラブルに対する臨機応変な対応力もそう」

 結果、この時の池町は総合16位でダカールに到着している。それまでの日本人最高位を更新するリザルトとなり、これを機に池町の名は広く知られ、ラリーストとして飛躍を遂げて……とはならなかった。今もそうだが、日本では2輪のラリー自体が確立した地位になかったからだ。昼間働き、その合間にスポンサー活動と練習を重ね、夜は車両制作に時間を費やす。そうやって、なんとか最初の参戦費用は作ったものの、継続しての参戦は断念。翌年はオーディションでキャメルトロフィー日本代表の座(4輪)を勝ち獲るなど、さすがのポテンシャルを見せつつも、デスクワークに励む日々を送っている。

日本人最高位の記録とその後

 池町にとって2度目のパリダカ出場は、’00年まで待つことになるのだが、この時残した総合10位というリザルトは、今も破られていない日本人最高位である。付け加えるとプライベーター最上位でもあり、池町の上と下にはファクトリーライダーの名前が並ぶ。

「翌年からはKTM本社のサポートを受けて、ラリーには何戦か出ていたんですけど、やり切った感がありました。特にパリダカでは、10位以上はきっとないだろうなと」

 やがて池町は4輪の世界に活路を見出し、プロラリーストとしてのキャリアをスタートさせる。ダカールラリーでは日産でクラス優勝(’04年)、トヨタでクラス2位(’06年)を獲得した他、WRC(世界ラリー選手権)にも参戦するなど、国内で夢をくすぶらせていた多くのライダーとドライバーにどれほど希望を与えたことか。

 もっとも、チームの母体が巨大企業になればなるほど、ままならないことにも翻弄され(カルロス・ゴーンによるモータースポーツ活動の縮小など)、池町は再びプライベーターへと戻っている。

「その後もラリーにはスポットで出ていたけど、資金集めに奔走するばっかりで、もう辞めようと。メーカーの新車を全国に陸送したり、そのドライバーを育成する会社で7年くらいきっちりサラリーマンやってました」

 着実なステップを踏む、池町の緻密さが細やかな車両運行管理に向いていたのか、最後には関連会社の社長に就任。携帯を3つ持ちながら日本全国を飛び回る忙しい日々が続いた。

 仕事は安定している。業績も好調。給料は悪くない。それでも、ふとした時にもやもやとした感情が湧き上がってくる。会社の看板を背負い、肩書が記載された名刺を出す相手がいる間はいい。しかし、定年を過ぎるとなにも残らないのでは? だったら、「池町佳生」の名前一本で勝負できる環境を整えた方がいいのではないか。そんな逡巡の末、池町は特になんの策もなく、親会社に辞表を提出した。60歳、70歳になった時のことを想定しつつも、目先のことは考えずに行動してしまうところが、池町という男の読めなさでもあり、ユニークさでもある。

「’15年に会社を辞めてからは個人で陸送を請け負ったり、2輪や4輪のインストラクターを務めたり、地盤調査の仕事をしたり。なにかに偏りたくないというか、自分の時間をひとつの事だけに費やしたくないんです」

 そう語る池町がやはりユニークなのは、点々とした人生を送りながらも「根無し草みたいな感覚は好きじゃない」と平然と言ってのけるところだ。海外を渡り歩き、仕事の関係で居住地は変えても、住民票は神戸市から移したことがないという主張が、その根拠になっていて、たしかに今回のダカール復帰も、神戸にある池町の自宅が起点になっている。

「年末年始は、僕の家に仲間が集まることが恒例になっていたんですけどね。ある年、テレビで放送されていたダカールラリーの番組をたまたま観て、近頃は南米からサウジアラビアに舞台を移していること、その雰囲気がかつてのアフリカに近かったこともあって、興味が湧いた。コロナ禍の閉塞感と、50歳を間近に控えて、大きなことをできるのも最後という思いが重なって、“3年後にダカールに出る”と宣言。後に引けない状況を作らないと実現できない気がした」

コロナ禍の3年と50代のときめき

 ‘97年の初参戦の時もそうだったが、なぜ3年なのか。「3年って、短期でも中期でもない狭間の期間でしょ。短すぎると準備が整わないし、あまり引き伸ばすと気持ちが続かない。それにコロナは3年で終わるって聞いてたからちょうどええかなと」と、飄々とした口ぶりで説明してくれたが、本当に3年後の’24年、池町はKTM・450ラリーとともに、ダカールラリーのスタート地点アル・ウラに立っていた。

 1月5日のプロローグランから同19日の最終日までの15日間、総走行距離8000kmにおよぶ行程を池町は着実に走り切り、450ラリーを見事にゴールへと運んでみせた。2輪部門総合60位、ベテランクラス6位というリザルトを刻み、「もう悔いはなんにもない」と清々しく、そして「バイクはこれで終わり。しんどいし、危ない」と笑う。‘00年のパリダカールラリーと、’24年のダカールラリーとでは、池町自身が重ねた年月もさることながら、競技の質がまるで異なっていることを実感したという。

「走るだけなら走れる。でも、かつてのパリダカがホノルルマラソンだとしたら、今のダカールは世界陸上みたいなもの。コースの難易度もペースも格段に上がっていて、ずっとハンドルを押さえつけて走っていたから血が指先に巡らなくなって爪がはがれたほど。最近になって、ようやく体調が戻ってきたくらい厳しい。毎日ゴールした瞬間から次の日のスタートのカウントダウンが聞こえてきて、はぁ、また走らなあかんのかって。52歳の躰にはきつかったけれど、あそこに向かって3年間頑張れたのはよかった」

 ダカールラリーと聞けば、話題は当然そこでの15日間にフォーカスされる。しかし、昔と違って、そもそもエントリー自体が簡単ではない。出場資格を得るには、それ以外の世界ラリーレイド選手権(ダカールラリーはこの第1戦に組み込まれている)でペナルティを受けることなく中団以上の順位で完走し、さらにはチーム体制がきちんと整っていることを証明した上で、主催者の審査をクリアしなくてはならない。池町はいくつものこのハードルを、‘23年の第2戦アブダビデザートチャレンジのリザルトで突破。普通の感覚では、その時点でエネルギーを使い果たしていても不思議ではないが、競技の真っ只中で「次はなにしようなかぁ」と考えていたという。

 ここで、今回のテーマ「Why?」を投げかけてみた。なぜ、走ろうと思ったのか。なぜ、ダカールだったのか。池町はその問いに、明確な答えを出していない。

「なんでかなぁ。自分でもまったくわからない。コロナ禍で汲々としていたからとか、ずっとメカニックをしてくれていた友達が亡くなったからとか、いろいろとこじつけることはできるけど、つまりは自分へのチャレンジ……かな。これまで培ってきたことと、今持ってる武器を最大限発揮できる場がダカールにあったってことでしょうね」

 初めて海外ラリーを経験してからちょうど30年。ラリーを旅になぞらえる池町にとって、’94年のオーストラリアンサファリがその出発だったとすれば、今年のダカールはひとつの帰着になり、今はビバークのひと時といったところだろうか。

「でも、次にやりたいことはもう決まっていて、家のリノベーション。今、住んでいるのは築150年の古民家なんだけど、これを“北の国から”の五朗さんみたいに自分独りで作り直したい。これもやっぱり3年かな。なにかやってないと生きていけないでしょ?」

 池町の動向は、若林の耳にもしばしば入ってきていた。ダカールラリーへの再挑戦とその成功を聞き、「心からよかったなって気持ち。いろいろなことに決着がつけられたんだと思う」と言った。「イケマチの家、今度取材しに行くわ」、「いやや、やめて」。他愛もないやりとりではあるが、ここに至るまでには長い年月を要している。そしてまた、新しい時が回り始めた。

『ahead OVER50』 2024年7月号の特集記事に加筆

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