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22年目の背番号22 【088/200】

ヤマカワタカヒロです。

9/1(火)、阪神タイガースの藤川球児投手が今シーズン限りでユニフォームを脱ぐことを発表しました。

歳は2歳下だけど、自分と同世代のヒーローとして、僕はずっと彼に勇気をもらい、彼を応援し続け、ここまでやってきました。

ついにこの時が来たか、という思いと、今まで本当にありがとう、の思いで、胸がいっぱいです。

最大限の敬意と、最上級のファンとしての好意を持って、このnoteでは「球児」と呼ばせていただきます。


火の玉ストレートの誕生


球児はいわゆる松坂世代の一人で、98年のドラフト一位で阪神タイガースに入団しました。
この年のドラフトでプロ入りをした選手を調べてみると、松坂大輔、福原忍、東出輝裕、新井貴浩、建山義紀、森本稀哲、福留孝介、岩瀬仁紀、上原浩治、二岡智宏、金城龍彦、小林雅英、里崎智也など、球界を代表する選手だらけ。
まさに歴代最高の当たり年と言われるドラフトでした。

入団後、新人ながら目覚ましい活躍を見せる松坂大輔や上原浩治の陰に隠れて、球児は先発投手として目立った成績を残せず、2003年オフには戦力外通告を受ける可能性があったと、後に岡田彰布元監督は語っています。

2004年、山口高志コーチの助言による投球フォームの改造、中西清起コーチの助言による中継ぎ転向を経て、“火の玉ストレート”を手に入れます。
そして2005年。現代の日本のプロ野球の戦術に多大な影響を与えた「JFK」の一角として、シーズン80登板を記録し、防御率1.36、46ホールドをあげて、チームのリーグ優勝に大きく貢献しました。


2005年の大ブレイクをTVで眺めていた僕

球児が大ブレイクを果たした2005年。
僕はこの年のことを、よく覚えています。

社会人5年目。
新人からバンド活動と会社の仕事を前のめりに続けてきた僕は、順調に2005年を開幕しました。
アコースティックデュオから4人組のバンドに進化した「the Brand-new Amsterdam」1stミニアルバム「Stairway」の自主制作・リリースを果たし、会社の仕事では、同期の中でも先頭を切って課長への昇進を果たし、課のマネジメントに加え、大きなプロジェクトの推進役を任されました。

しかし、その後、バンドのほうはメンバーの遠方への転居に伴って、ライブ活動を休止。
会社の仕事のほうは、これまでに経験したことのない仕事の難しさと量、そして人間関係の難しさに悩み、長時間労働による心身の疲労で、僕のパフォーマンスは失速していきました。

この年の夏、どんどん追い込まれていく中で、TVで見る球児の活躍が、心の支えでした。

どんな強打者も、ストレートで空振り三振に切って取る球児。

「わかっていても打てないストレート」
「ホームベースで浮き上がるようなストレート」

球界を代表する選手たちが、口々にそう表現する火の玉ストレート。

僕も、本当なら、そんな仕事をしているはずだった。

若手のエースとして、出世頭としてどんどん実績を出して、部の業績に貢献している自分。
彼に任せれば大丈夫。彼ならやってくれる。周りからそう言われている自分。

そんな自分を想像し、投影しながら、球児が築く三振の山を眺めていました。


メジャー、手術、独立リーグ、そしてタイガース復帰

その後、球児は、同期入団の中日ドラゴンズ・岩瀬仁紀と並び、日本球界屈指のクローザーとして圧倒的な成績を残し、2013年から念願のメジャーリーグでのプレーを叶えます。
しかし、ケガによる成績不振、手術の影響もあり、2015年のシーズン途中に自由契約となり、日本球界への復帰となりました。

復帰先は、古巣の阪神からのオファーを断り、「地元の子どもたちに夢を与えたい」と、四国アイランドリーグを選びます。出身地である高知ファイティングドッグスへ入団。登板試合ごとの契約、球児自身は無報酬で登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設へ寄付する、という驚くべき契約内容でした。

独立リーグでのシーズンを終え、2016年からは金本新監督に迎えられ、阪神タイガースへ復帰。優勝を知り、メジャーを知り、栄光と挫折を知るベテランピッチャーとして、マウンド上での活躍のみならず、チーム全体にあらゆる面における貢献をしてきました。


外に出て戻ってくる、ということ

球児の移籍のタイミングよりも少し早く、僕は会社の中でターニングポイントとなった部門異動を経験しました。異動先の部門は、新設の事業ドメインにおける経営企画および新規事業開発がミッションであり、その立ち上げメンバーとしての参画でした。

ここでは、自分にとってまるでメジャーリーグに来たような、これまでの積み上げが全く通用しない感覚に襲われました。
もともと所属していた事業部門では、今思えば、すでに出来上がった事業の中で定型の仕事をトレースし、たくさんの先人たちが築いたレールの上を走っていたわけです。
しかし、今度はそうはいかない。前例が何もない。上司と少数の仲間たちと一緒に「自分たちは何をするのか?」から考えなければならない。

本当に白紙の画用紙を渡されたような気持ちになりました。
「誰か、答えを教えてほしい。白紙に“なぞる線”を書き込んでほしい」
心からそう思いながら、自分は何をすべきなのかを考え続けました。

古巣の事業部門と、まったく異なるビジネスモデル・組織文化の事業部門を横断・連携した新規事業の立ち上げのために、日本全国を飛び回り、これまでと比較にならない人数の人たちと会い、話し、3年間を駆け抜けました。

結局、この事業は事業化見送りとなり、その収束対応まで見届けた僕は、古巣の事業部門に戻ることになりました。

戻ってみて思ったことは、「外に出たことで得られたものがあまりにも多い」ということでした。
出なければわからないこと、出会えない人、できない経験、そんな宝物を携えて古巣に戻った僕は、外で得てきた経験をチームのために還元することを意識して働くようになりました。

若手時代の苦しい挫折から、自分を磨くことに集中してやってきた僕は、いつの間にか、ベテランになっていました。プレイヤーとして成果を出すことに加えて、チームの勝利に貢献する働きをすること。

球児がタイガースに復帰してから、僕は10年前とは違った目線で、少し球威の衰えた球児のストレートを見るようになっていました。

マウンド上の球児と、ブルペンでの球児。
チーム全体に貢献する働きをしている球児。
そういう姿を想像しながら、空振り三振のたびに、彼よりも大きなガッツポーズをしながら。


『every little thing every precious thing』

今回の引退にあたり、2019年の時点で、彼は引退を球団に申し入れていたと報道されました。しかし、2019年シーズンは、56試合に登板して、4勝1敗16セーブ23ホールド防御率1.77というすばらしい成績。球団が「もう一年」と慰留したのも無理もありません。

球児はもう一年、タイガースのユニフォームを身にまとい、戦ってくれています。
調子を落とし、調整中のこのタイミングでの引退発表となりましたが、まだ、今シーズンの最後まで、優勝を目指して戦うと言ってくれました。

2020年。
新型コロナウイルス感染拡大という未曽有の危機を迎えて、球児が懸命に野球をやってくれているということが、僕にとって、本当に大きな心の支えになっています。


『every little thing every precious thing』

甲子園球場の9回表。
試合を終わらせるために球児がマウンドに向かうときに、地鳴りのような歓声とともに流れるリンドバーグの名曲。

先の見えない不安の中だからこそ、目の前のことに集中して、全力を尽くすこと。
それこそが最も大切なことだと、この曲と、球児の投球が教えてくれます。


球児も僕も40代。
これから先は、マネージャーや指導者、他にもいろいろな生き方があります。
ただ、それを考えるのは、プレイヤーとして目の前の戦いを終えてから。

僕が入団する時に3回優勝すると言っていましたが、まだ2回しかしていません。22年目で3回目のチャンスが来ているので、後輩たちがやってくれますし、僕は僕でもう一発なんとかと考えています。頑張ります。

引退会見で、球児はこう話しました。

心から、その願いを叶えてほしいと思います。

忘れもしない、あの2008年シーズンのリベンジを果たす舞台は整っている。


甲子園球場の9回表。

地鳴りのような大歓声とともにマウンドに上がる22年目の背番号22。

その姿をもう一度、

いや、

何度でも、僕たちに見せてほしい。

every little thing
あなたがずっと追いかけた夢を一緒に見たい
every precious thing
奇跡のゴール信じて今大地を踏み出した
『every little thing every precious thing』

noteを読んでくださりありがとうございます。 歌を聴いてくださる皆様のおかげで、ヤマカワタカヒロは歌い続けることができています。 いつも本当にありがとうございます。