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コロナ禍による規制は、子ども・若者に「正しいこと」として押し付けられるものなのだろうか

学校や大学は、新型コロナウイルスの感染対策のうえで、規制の対象になりやすい。部活動や行事の中止、グループワークや合唱の制限、「距離をとること」の徹底、さらにはそもそもの「対面」の停止。公的機関であるがゆえのコントロールのしやすさもあるだろう。
もちろん、感染拡大をできるだけ防ぐという点からは、これらを行うに越したことはない。

けれども、すでに明らかになってきているように、新型コロナウイルスには10代や20代も感染するものの、彼らの死亡率・重症化率は極めて低い(そもそも死亡に関しては、4月19日時点のまとめで、20代以下の死者はこれまで1人も出ていない)。
つまり、彼ら同士で濃密にふれ合ったとしても、相手に直接的に致命的な危害を加えること・加えられることはほぼない(もちろん、ウィルスの運搬役となって互いの同居家族にそうした危害を間接的に及ぼす可能性はあるし、医療機関への負荷を高めることで自分たちが別件で必要なときに受診できないといった不利益を生み出す可能性はある)。
変異株の場合でもこれは同様らしい。

そんななか、われわれ(中高年世代)はどれだけ彼らに、「決められた対策に従うこと」を求められるのだろう

今学校では、新年度が始まって新たな出会いもあってはしゃぎ気味の子どもたちを前に、もっと互いに距離を取るよう&必要以上の接触をしないよう注意すべきか、あるいはそのまま見過ごしておくか、悩んでいる先生方が、きっと多くおられるのだろうと思う。

ここで教師が、それを見過ごしたくなるのは、決して教師が怠慢だからではない。そんなふうに同年代の仲間とじゃれ合うことが彼らの成長・発達にとって大事だということを、おそらく直感的に知っているからだ。
子どもたちにとって、相手がどんな人間か、何はOKで何がダメで、どんな性格なのか、そして自分とはどんな関係を築いていけそうなのかといったことを知る最も手っ取り早い手段は、(授業などでの公式のつながりよりも何よりも)じゃれ合うことなのだ。そして、じゃれ合うというのは、本質的にそれがさまざまなかかわり方の試行錯誤である以上、過剰な接触を伴う

大学(院)生の場合でも同じで、「(対面)授業後は速やかに建物から退出すること」が一応指針として示されている本学の場合でも、学生たちは、建物内に残ってキャッキャとおしゃべりしたりボードゲームをしたりしている(マスクはきちんとつけている)。傍らで勉強しながら、たまにそれに加わる、という学生もいる。これらを通して、彼らは、互いの人となりを知っていくし、それが、授業内(公式のカリキュラム内)での互いのかかわりをより充実したものにすることにもつながる。そんな彼らに対して、「さっさと出ていくように」と追い立てる気には私はなれない。

もちろん、中高年世代のほうが、「自分たちには危険なウイルスだから、それをまき散らしてくれるな。子ども・若者世代も、拡散防止に協力せい」と求めるのは、それはそれでもっともだ。
けれども一方、子ども・若者世代のほうが、「自分たちは、互いにめいっぱいかかわりあって(特に小学生くらいまでであれば文字通り体をぶつけあって)遊びたいし学びたいんだ。それは自分たちの成長にとって必要なことなんだ」と主張したとしたら、それは、無下に否定できるものではないと思う。だいたい、数十年後に社会を担っているのは彼らであり、半世紀も経てば私はおそらくもうこの世にいないのだ。
つまり、これは、中高年世代の、長生きすること・健康であることを求める権利と、子ども・若者世代の、健全に成長・発達することを求める権利との間の調整(さらに、社会のインフラを支えるエッセンシャルワーカーの、身の安全を求める権利なども加わる)の問題であって、決めたこと(ほとんどの場合もっぱら中高年世代が決める)を子ども・若者に「きちんと守らせる」といった形では捉えられないものなのではないか。

これは別に、例えば、コロナ禍以前に行われていたような、かたまっておしゃべりしながらの食事(学生の場合なら飲酒も)や密集しての合唱などを子ども・若者に認めるべきと一足飛びに訴えるものではない。感染拡大を招きやすい場面・状況が明らかになっている以上、「これは危険度が高いから協力してね」と求めることはあってよい。やむを得ず強い規制を導入しなければならない場面もあるだろう。けれども、それは、権利間の調整の結果として行われるべきものなのであって、誰かが「これが正しい」として押し付けられるものではないはずだ。

もちろん、そのための対話を実際に行い、一定の社会的合意を形成していくというのは難しい。
けれども、私は子ども・若者はもっと声を上げてよいのではないかと思っているし、他の人からもそれをサポートする議論ももっと出てきてよいのではないかと思っている(例えば、幼児から小学校低学年くらいまでなら、表情と感情そのものについて学んでいく過程という観点から、保育者や教師もマスクなしで子どもたちに接するということが、子どもたちの権利として議論されてよいと思うし、そのための環境整備が行われ、リスクを受け入れることも含めた社会的な合意を求めてよいと私は考えている)。

私自身は、(当たり前ではあるが)できることなら新型コロナにかかりたくはない。実際、この1年間、ほぼまったく都外に出ることなく、それなりにストイックに感染に気を付けて過ごしてきた。自分の身の安全を最大化することを考えるなら、子ども・若者にもさまざまな制限が課されるほうが、都合がよい。けれども、「決められたことを守って当たり前」「守らないのは不届きな輩」と思われていそうな、今の子ども・若者が置かれている状況を考えると、もう少し別の問題の捉え方があってもよいのではないかと思うのだ。

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