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映画『童貞。をプロデュース』について

近頃、映画『童貞。をプロデュース』を巡るセクハラ、パワハラについて考えています。2007年に公開されたこのドキュメンタリー映画に出演していた加賀賢三氏が「撮影中、性行為を強要された」と被害を訴えています。撮影中、羽交い締めにされ、AV女優に口淫され、その様子は、映画として本編にも使われてます。

2017年、池袋シネマ・ロサで行われた10周年記念上映の舞台挨拶で、加賀氏は、性行為の強要について、監督の松江哲明氏に謝罪を求めました。松江監督と配給会社は、謝罪声明を公式サイトに掲載したものの、加賀氏は公の場での対話と謝罪を求めてます。

ぼく自身、スコットランドの大学院でドキュメンタリー映画を学んでいますが、この作品を観たこともなく、加賀氏も松江氏も知りませんでした。正直、日本の映画業界についても何も知りません。が、ある日、Twitterで加賀氏のインタビューを掲載したガジェット通信の記事を見つけ、この問題を知るに至りました。

問題の本質は、性被害にあった被害者が、加害者との対話を求めていることですが、それに加え、加害行為の様子が映画として公の場で上映され続けてきたことは、多くの性被害のケースと違うと言えます。『童貞。をプロデュース』を取り巻くインタビュー記事、ニュース記事、Twitterでのポスト等を見ていく中で、考えさせられるものがあったため、この文章を書きはじめました。

まず、松江氏の謝罪表明は加賀氏の許しを得るには十分でなく、松江氏は加賀氏が納得する形で謝罪と対話をするべきだと、ぼくは考えています。その上で、「自分自身の加害性」と「許しについて」書き留めておこうと思います。


自分自身の加害性について
インタビュー記事を読んで感じたのは、被害者である加賀氏の怒りです。その怒りは、松江氏のみならず、この事件を黙殺し続けてきた映画業界全体にも向けられていました。

記事を読み、この件について調べ始めてすぐは、加害者である松江氏に「あの人は、ひどいやつだ。すぐに公の場で謝罪しろ。」とは、強く言い切れない自分がいました。加害者を人間ではないかのごとく非難するコメントを見ると、この人たちは、自分が被害者にしかなり得ないと思っているのだろうか、と感じたりしていました。

ぼくは、すべての人間が被害者にも加害者にもなりうると思っています。誰もが、人を傷つけて生きているだろうし、心の中に加害性を持っている。ぼくも自分自身の中にある加害性、誰かを傷つける可能性を否定できません。映画を撮る中で、誰かを傷つけているかもしれない。映画から離れても、自分は人を傷つけて生きてきているだろうし、心の中に加害性を持っていることを否定できないし、するべきではないと思っています。

そして、松江氏のエゴについても理解できてしまう。公の場での対話を求められて、それは、きっと恐ろしいだろう。被害者が抱えてきた苦痛を棚に上げて逃げたい、そんなエゴが想像できました。今、ぼくが、この文章を書けているのも、自分のことではないからではないのか。自分が松江氏の立場だったら、真摯に向き合うことができるだろうか。松江氏を批判することは、自分自身へ批判を突き立てることでもあると思うのです。

そんなぼくの小さな器の中での葛藤があった上で、この問題に言及させてもらうと、やはり、松江氏と関係者には、加賀氏が納得するまで謝罪、対話をして欲しいです。それは、被害者が望んでいることであり、そして、その先に被害者と加害者の両者に救いがあるのではないでしょうか。なぜなら、被害者である加賀氏は加害者である松江氏を許そうとしていると思うのです。

許しについて

’この件に関していまだに“本当の意味で”あなたたちを救おうと考えているのは、おそらく地球上で俺ただ一人だと思います。’

加賀氏のTwitterへのポストからの引用です。松江氏と関係者へ向けた、この一言が、非常に印象に残っています。

人を許すとはどういうことだろうか。それは、和解とも、もちろん忘却とも違います。許しは、多くの違う面を持っています。被害者からの許し、社会からの許し、自分自身、ときに宗教的な赦しも関わってくるでしょう。しかし、被害者-加害者間の許しについて考えるとき、対話こそが、そこにたどり着く唯一の方法なのではないかと思うのです。

今年、短編映画のリサーチをする中で、Restrictive Justice (RJ) という考えを知りました。

RJ とは、ある特定の加害行為 (offence) に対して、利害関係を有するすべての関係者が、その侵害行為によって被った影響及びそれによって将来予想し得る影響といったものを、どのように処理するか、共同で解決策を見いだすために一堂に会するプログラムのことである。(Marshall, 1999, cited in Ogasawara, 2012)

つまり、被害者が加害者と対話する機会を持てず、その事件から被害者が解放されないという状況を解決するため、対話の場をもつプログラムです。司法の場では、たとえ法的に加害者が罰せられたとしても、被害者が加害者と対話する機会を奪われることで、結果的に被害者が救われない、ということがしばしば起こるそうです。

今回のケースでも、この考えは当てはまると思います。被害者-加害者間の許しを考えるとき、対話によって被害者がその出来事から解放されるべきです。これは、和解とも忘却とも違い、建設的に将来の支援、謝罪、再犯防止を話し合うことだと思います。これにより、被害者はその出来事から解放され、加害者も被害者からの許しを得ることで前に進めます。

たとえ、この対話が被害者のためにあるといえど、本来、被害者に対話を強制してはいけないし、許しを強制することはできません。しかし、今回の『童貞。をプロデュース』の件では、被害者である加賀氏は、自ら対話を求め、許しを示唆しています。建設的な謝罪と対話の場を求めているのだと感じました。

この対話は必ずしも公の場でおこなわれる必要はないのかもしれませんが、そこで建設的に話し合われた結果は適切な形で公にすることが、加賀氏を支援することに繋がるのではないかと考えます。なぜなら、今回のケースで加賀氏は、公の場で被害の様子を晒され、問題が閉じられた関係者の中では収まっていないから。

関係者が集まり、さらに、加賀氏がそこで責められることがないよう、立会人をつけた上で、(もしその方がより良い案ならば公の場での)対話がおこなわれることを願います。

そして、もし被害者からの許しを得られたとしても、自分自身を許せないという気持ち、社会からの批判は残ると思います。完全に許され、解放されるということはないのかもしれません。

しかし、最後に触れておきたいのは、批判と人権侵害は全く別だということです。また、加害者への報復と被害者の救済は別のものだということ。

以上、自らへのいましめも込めて。

引用:Ogasawara, K. 2012. 赦しについての哲学的研究 修復的司法の視点から. 現代生命哲学研究. 1. pp. 25-45.

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