ホタル帰る 2


 昨日の続きです。

 特攻隊のお母さんだったトメですが、終戦後にはさらなる試練が待っていました。終戦後、困窮した生活を強いられる中で、知覧に米兵が駐留することになります。知覧では、地域の治安維持のため、慰安婦を用意するなどしましたが、その他にも戦中の軍指定の食堂と同様に、今度は米兵指定の食堂として切り盛りしてほしいとトメに依頼します。さすがにトメも、特攻隊を見送った身で、敵である米兵の面倒を見るなんていうことは頑なに断ります。


 しかしながら、結局富屋食堂で米兵のパーティが開かれるということになり、そうしたことが繰り返されて、結局、トメは米兵の面倒を見ることになります。しかしながら、米兵も人の子、見送った特攻隊の面々と同じように屈託なく笑い、トメになつくようになります。トメは日本人もアメリカ人も変わらない、どうしてこんなにかわいい青年たちが戦争で戦わなければいけないのかという思いに苛まれます。


 さらに、心無い方々もいたもので、そもそも富屋食堂は「特攻隊で儲けた富屋」なんていうことを言われていた上に、「きのうまで特攻隊の母だった人物が米兵に取り入ってチヤホヤしているとはなんだ。節操のないことおびただしいではないか。」などと言われるようになってしまいました。著者の礼子は泣かんばかりに停めに「アメリカ兵をかわいがるのはやめて」と訴えたそうですが、トメは「どこへ行ったって、あの人たち(米兵)に優しくしてくれる人はいないよ。日本人は敵だったんだからねえ。あの人たちは敵に囲まれているんだよ。かわいそうじゃないか。淋しいんだよ。だから、せめて富屋にいるときくらいやさしくしてやりたいと思うよ。」と諭します。何度も「自分だったら、、、」と考えさせられますが、とてもじゃないけどこんな風に考えられないですね。本当にお母さんしていたのだと思います。


 富屋食堂は富屋旅館に代わり、礼子の姉・美何子とその夫によって引き継がれ、その後のトメは、特攻隊を慰霊する観音像の建立を行政に訴えかけます。私費での建立も可能だったそうですが、「特攻隊員はあくまで国のためにわが身を犠牲にした人たちなのだから、その霊を慰めるという行為は、公に行わなければいけない。」、「あの人たちをいつまでも日陰者にしないために市民権を与えなければいけない。」という思いから行政に訴え続け、昭和三十年に観音像は完成したそうです。


 その後は知覧特攻平和記念館のオープン祝典にも車椅子で出席することもできて万感の思いだったのではないか、いや、それでもまだまだ足りないと思っていたのかもしれません。そういう意味では志半ば、89歳でお亡くなりになりましたが、こうした方の思いを、本書を読んだり、映画を見るなどして少しでも受け継いでいければと思いました。

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