生きる喜びっていうものがはっきりしてきたような


会場の案内文1
会場の案内文2

他人がどんなふうに芸術とやらを定義しようが、そんなものわたしの知ったことではありません。

こさえた「さち」を仲間に分ける。

原始部族の狩の獲物みたいなものです。

おとこが獲物を捕って、おなごは子どもに乳をやったり木の実をひろったり。

狩など足手まといにしかならないようなわたしでも、なんかしら役に立っているようないないような?

こんなわたしにも、分け前を頂けたら、一つ覚えの仕事でわたしを村に住まわせてください、ってなもんです。

以下、書き起こし。


わたしの制作中に、このテーブル上の作品をテキトーに物色なさって、そこにある手提げ袋に入れて勝手にお持ち帰りください。

もとより値段がついていない作品など価値がないというお方様にはわたしの藝術は御用がありません。

野に咲く花を摘んで帰るくらいの軽いお氣持ちこそわたしの意図するところです。

わたしは生活費も画材代もテキトーに入ります。

画家であるなら、自分の絵が人の家の一角を占めることを許されて、しかも時に眺めてもらったり、ましてやそれがご自分の趣味として来客の目に留まったりすることが、とんでもなく光栄なことだと思うのは、わたしだけではないはずです。

すなわち、わたしの絵はあなたらしさを表現することの一翼を担うことができる。

わたしは今日でもう、死んでも本望です。

以上。

文句があるならかかってきなさい。

・・・

以下、だいぶ経過してこれを書きます。

表現することがほんぶんであるはずの藝術家が、

わたしが忌み嫌う、主張など掲げたりするアーティスト連中と同じ穴のむじなとは?

プロジェクトページの文章を抜本的に見直さなけれな、と思いました。

とりあえず、

楽園主義のことは記録に残せたので、

自分の絵を人に見せたいという目的を果たします。

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