テクニウム2

テクノロジーが強調される世界で思考停止しないために考えていること

私はTwitterで質問箱を受け付けていますが、こんな質問が入ってきました。

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なぜ人は思考停止するのか?

以前書いた記事で、同じ時間を過ごす中でも「命を失うこと」と「命を燃やすこと」の違いは思考にあると、その重要性について書きました。

一方で、思考停止に陥ることはよく見かけることです。例えば自分のキャリアの歩み方について自分で考えなかったが故に転職を希望したときに何も身についていなかったり、ニュースに対して自分で考えないが故にフェイクニュースが流布されたり、何も考えずに政治家に投票したりします。

では、考えることが大事なのは明らかなのになぜ思考停止に陥るのか?を考えてみます。

そもそもですが「思考」という行動は生物学的にはとてもエネルギーを消費する行動です。

厚生労働省のe-ヘルスネットによると、脳は重量換算では全身の約2%であるにも関わらず、エネルギー消費量換算では全体の約20%のエネルギー消費を行います。

脳を使うというのはとてもエネルギーを消費するため、エネルギー効率を考えると、生物は思考しなくてもよい環境であれば極力思考をしない方を無意識に選択すると考えられます。

つまり、思考停止を安易に責めることはできず、エネルギー効率を求める生命の原則に抗わないと我々は意識的に思考をすることができないということです。

考えることを諦めない方法

しかし多少逆説的ですが、エネルギー効率的には思考停止する環境下でも、我々が生物の原則に抗って思考し、行動することで世界を常に改善できることが希望であると私は考えています。

ここで1982年に出版されたノーベル化学賞受賞者の福井謙一先生の著書「化学と私」の言葉を引用すると、「人は、生物的人間と科学的人間の二面性を持っている」という記述があります。

「生物的人間」というのは、ヒトという生物が持つ体感、感覚や感情によって世界を捉えていく側面を意味します。一方で「科学的人間」というのは、自分の持つ科学リテラシーによって世界を捉えていく側面を意味します。

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例えば、健康目的で運動量や食事量をコントロールするのは、科学的人間のできることです。例えば糖質は美味しいという体感があるからたくさん食べたいという生物的考えと、糖質を過度に取り過ぎると将来的な糖尿病等の疾患リスクが高まるという科学的リテラシーによって、生物的欲求と相反して適量にコントロールしようという科学的考えがあります。

運動量や食事量など、生物的認識と科学的認識の間に断層があっても、知性を持ってその差を解消することができます。その対象が「思考量」でも同じだと考えています。

つまりエネルギー消費の抑制のために生物的には思考停止しそうになっても、知性によって能動的に思考量をコントロールすることができるということです。

では思考量がコントロールできるとして、「どういうときに人は思考するのか?」という問いがでてきます。

無感動で無関心な人とそうでない人の違い

「思考」の原点は何かというと、簡単にいうと主観(感情)から始まります。思考とは、まず①問いを立て、②その問いに対して解を見つけていこうと試行錯誤するプロセスです。

以前の記事で、カオスな環境を経験すると、主観的命題としての「問い」が設計されやすく、結果物事を起こすエネルギー源になるという話を書きました。

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たとえば起業家が起業する理由は個人的な体験に基づくとても主観的な視点であることが多いです。スティーブジョブズや孫正義さんもそうで、幼い頃にすごくカオスで理不尽な思いをし、他人には論理的に説明できない湧き上がるエネルギーというのがあります。

また例えば昔、吉田松陰は弟子たちに「狂いたまえ」と言いましたが、「狂う」とは、周りの常人には理解できないほどの「主観的理解による行動をせよ」ことです。これが主観ではなく客観的に論理的に説明できるのであれば狂うことにはなりません。

自分の主観的な感情を大事にすることで、問いが生成されやすくなり、思考し行動する環境に身を置くことができます。

ただ、主観的な感情が鍵だとしても、同じ外界の変化や事象に対して、無感動で無感覚な人と、感情豊かな人がいます。

大人になってどんどん無感動になっていくのは、過去が積み重なっていき思考枠が固まってしまうからだと以前書きました。感受性が高い人は自分に対して素直で、無感動な人ほど偏見を持っています。

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思考停止しないためには、柔軟性(感受性)を持つことで、主観的な感情を認識して「問い」を設計し、思考するという状況が必要なのだなと思います。

テクノロジーが強調されるポスト平成社会での生き方

さて思考停止に関連して、ポスト平成時代はこれまで以上に「テクノロジーが強調」される世界が続くと考えています。

主に物理測定機器の発達とコンピューターの発展に伴って、あらゆる分野のテクノロジーの進化は確実にまだまだ続きます。たとえば私の生命科学分野でいうと、テクノロジーの発展により生体分子データが溢れて生物メカニズムの解明が進み、それを応用してゲノム編集や再生医療という次のテクノロジーを生むというサイクルが加速します。

そして加速しているものは目を引きやすく、たとえばゲノム編集やAIといったテクノロジーだけが着目される議論も増えています。

ケヴィン・ケリーの「テクニウム」やクリスチャン・マスビアウの「SENSEMAKING」、またアート思考の重要性を謳う本といった、テクノロジーだけが強調される世界に警鐘を鳴らす本が増えているのもその証拠です。

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しかし、テクノロジーやアルゴリズムだけが強調される時代にはそのように思考停止するのではなく、感受性豊かに自身の主観的な感情も感じ、建設的な問いを立て、思考して行動し続けるということがより重要になると考えています。

たとえばスティーブン・ピンカーが言うには「完全な世界というものは存在しないが、人類が思考をあきらめず知識を応用し続ければ、実現できる改善は無限である」と希望を打ち出しています。

詳細な数値データはこちらで言及されていますが、実際に我々は30年前よりも、より多くの知恵を得て、賢くなり、生命や宇宙の新たな可能性にも切り込んでいます。

現存するあらゆる問題を解決したとしてもまた新たな問題は起き、問題のない世界は存在することはありませんが、そのような世界の中に生きる私たちにとっての唯一の希望は、「私たちが思考し、学習し、常に前進できる」ということです。思考を諦めなければ、無限にアイデアを出し、良い未来に向かっていくことが原理的に可能です。

私は未来が明るいと思っていますが、それは「人類皆が生命の原則に抗って思考をし続けた場合に限る」という条件付きだと思っています。

ただ同時に「環境が常に変化するなか、しなやかに強く感受性高く思考し、建設的で壮大な進歩をし続けられる思考停止しない人類の能力」を私は信じていて、そのように生きる人が増えるといいなと思っているので書かせていただきました。

私も、個人として生きているうちは、主観的に心から好きな生命科学を活用して、経営活動、研究活動、社会活動、人生において思考して行動し続けていきたいと改めて思いました。

まとめ
・思考停止はエネルギー効率を考えると生物の原則だが、人類はそれに抗う知性も持っている。
・思考は問いから生まれ、問いは感情から生まれ、感情は柔軟性(感受性)から生まれる。
・今後はさらにテクノロジーが強調される世界になるが、そこだけに着目して思考停止せずに、感受性豊かに自身の主観的な感情を感じ、建設的な問いを立て、思考して行動し続けることがより重要となる。

最後に、しばらくブログは書かない予定です。これまでのブログはこちらにあります。また気が向いたらひょっこり書くかもしれませんが、これまで多くの方にご愛読いただき本当にありがとうございました。



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