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「育てる大学、育つ大学」をつくる ① (深掘りLIVE #30 文字起こし記事)

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深掘りLIVE #30 「育てる大学、育つ大学」をつくる ①

深堀ライブの30回目になります。少しサムネイルも変えて新シリーズですね。「育てる大学、育つ大学」をつくるのその1を始めたいと思います。

これの意味ですね、そしてどんな内容を話すのかということを少し、今日は1回目ですので、概略的にお話をしようかなと思っています。

その前に、実はこの深堀ライブですけど、これまではstand.fmをホストに配信してきたんですね。27回目まではそうだったんですが、前々回の28回目からすでにLISTENをホストに配信することに変えました。そういう変更をしています。

LISTENの方で文字起こし有料配信を基本にしながら、それをベースにしてnoteの方にも音声記事と文字起こし記事を載せていく。LISTENは文字起こし状態ですけれども、noteの方は記事として少し整えて見出しもつけて展開する形になります。

なぜ、「育てる大学、育つ大学」なのか?

それで、なんでこのタイトルか。育てる大学、育つ大学をつくる。

これまで「私立大学の運営と経営を考える」、あるいは「非営利組織の経営を読む」などのお話をしてきました。それ以外にも大学関係の話はしてきていて、今、「私学は自然淘汰の時代に入った」という話、それから「オンデマンド教育が日本の私学を救う」というシリーズも進行中なんですが、そんな中で、結局、大学の目的・存在意義ということが問われている。

前々から問われているんですけれども、「大学っていったい何のためにあるのか」ということがやっぱり前提にないと、そして「どういう大学を作るのか」ということについての共通了解がないと、いろんな議論が上滑りしていくんですよね。

そもそも大学の目的は何か?

例えば、オンデマンド授業より対面型の方がいいじゃないかという、そういうレベルの話になっちゃうんで、そうではなくて、そもそもの大学の目的は何なのか。何のために、なぜ大学を作って、なぜ今、存続させる必要があるのか。それは何を目的にしているのかというあたりをお話していきたいなと思っているんですね。

これ実は今もう、特に日本の私学、少子化の中で学生募集に躍起になっているので、大学の存立目的は学生募集。とにかく定員を確保する、あるいは学生を一人でも多く確保するというところにシフトしていて、もちろん教育にも力を入れているんだけど、それはむしろ、本来の目的というよりも他大学との差別化とかね。あるいは、なんとなく魅力のある、受験生が高校生が興味を持ちやすいものをやるというところに合わせて、そもそもの目的というものをどうも見失っているんじゃないかなという気がするんですよね。

目的喪失の時代に

ある意味、目的喪失。目的を見失っているような状態があるような気がするんですよね。

それで改めて、そもそもなんで大学を作ったのか、その目的は何か、建学の精神というのはそれにどう絡むのか。単に学生を集めることが目的ではないわけで、教育はするんだけども、それは何なのかということですね。

これはいろんな議論があって、一つは歴史的にやっぱり大学の目的っていうのは変化してきたわけです。これよく言われるのは、高等教育はエリート段階からマス段階、つまり大衆化段階、そして今はユニバーサル段階に入ったんだという言い方がよくされるわけですよね。

大学の目的の歴史的変遷

つまりエリート養成のために大学はもともと作られた。国家的なエリートですね。法学部とか作られたわけです。医学部も作られた。それから教育学部も作られた。国家エリート、教育エリートを養成するという目的でそもそもは作られた部分がかなり大きいわけですよね。

それから後は、近代化、産業化、工業化。こういったことを欧米追随ではなくて、国産でやるためにやっぱり高等教育が必要だった。そういう意味では理工系の教育ですよね。だから重視されたのは理工系、医学部系、教育系、法学系といったところがかなり重視されて作られたわけです。

もちろんベースとして、ユニバーシティという欧米の制度を入れてきたわけですから、最初はヨーロッパの制度を入れて、その後、戦後、アメリカ的な制度がだいぶ入ってきたわけですけども、そういう欧米の近代化に学んで、日本の大学制度、教育制度は整えられた部分がかなり強いので、そういう意味ではいわゆるグローバルなスタンダードとしての文学部とか哲学とかそういった要素も入ってるんだけど、だけどやっぱり日本の大学は、軒並み、理工系偏重、そして医学部、教育学部、法学部っていうのはかなり比重が高かったっていう部分が、これ過去の時代ですね。

エリート養成から大衆化段階へ

それがいわゆる大衆化と呼ばれる段階に入ってきたわけです。これエリート段階っていうのは就学率が15%未満という、これはある方がね、アメリカの教育社会学者の定義がよく使われるんですが、15%超えたらマス段階、大衆化段階に入ったと、大学の大衆化ってことがよく言われるようになったわけですよね。

ところが大学の教育っていうのはエリート養成の教育課程からあんまり変化しないわけですよね。結構、保守的だから。だから大衆化にうまく対応できない。そこで起きたのがいわゆる学生紛争だと言われてたりするわけですよね。大学の大衆化状況の中で学生紛争が起きたなんていう説明をする人もいるわけですが、日本では1960年代後半からいわゆる大衆化段階に入ったということなんですね。

大学のユニバーサル化

いわゆるユニバーサル段階と言われる段階に、今はすでに入ってるわけですが、これは就学率が50%以上と。高等教育全体で見た場合ですね。そういう言い方をするんですが。実は、大衆化段階にはその後ある程度、遅ればせながら対応した部分もあるんだけど、対応しきれなかった部分もいっぱい残ってるんです。そして、ユニバーサル段階へ。これ日本ではもう1980年代ですね。数字だけで言うと50%超えたのは1977年からだと言われてるんですが、基本的にやっぱり1980年代に大学のユニバーサル化が一気に進むわけですよね。

当時、私も学生だったのでよくわかるんですが、大学はレジャーランド化したっていう言い方をよくしたんですね。大衆化じゃなくてレジャーランドだっていう言い方がされるようになっていったわけですけども、そういったユニバーサル段階への対応っていうことが、いったいどこまで大学はできたのかっていう話なんですね。

ところがこれは2000年まで、20世紀末までは良かったんですね。いわゆる定員割れとかいう問題に直面せずに済んだわけです。つまり18歳人口もそれなりにいて、増えて、多少変動ありましたけれども、進学率がでもそれを上回る勢いで増えてたので、大学はむしろ倍率があったわけです。


進学率の上昇がユニバーサル段階への対応を遅らせた

特に私の時代は浪人生が多かったんですね。一浪二浪三浪はザラにいたと。浪人せずに大学に入るっていうのが少数派ではなかったけども、現役っていう言葉があって、浪人って言って、予備校が流行ったわけですよね。みんな予備校生は必ず1年間やるみたいな時代が、特に80年代ね、あったんですけども。そういう歴史的な変化の中で、大学の目的や役割って変わってきたんだけども、そこに対するミスマッチが実はあったということが一つです。

ところが、大学っていうのは結構、かつてのエリート養成、あるいは大衆化段階のカリキュラム、あるいはその時のイメージでまだやってる部分が結構あったりするわけです。これは大学によっても違うんですね。偏差値の高い大学とか、私学のいわゆるそうでもない大学に至るまで、いわゆる定員割れ、全入してるような私学っていうのはもう完全に、ユニバーサル段階どころの話ではなくて、もう全入なわけですから。全入させても定員割れしてるわけですから。

そこでじゃあ、例えば21世紀に入って2005、6年から2010年ぐらいになると、もう入試で落とせなくなるわけですよね。そういった大学はね。受験生はもうとにかく全部取っちゃう。

全入時代へ:入学した学生を育てられない時代へ

全部取っちゃうんだけど育てられない。育てられないんだから取るべきじゃないっていう議論と、いや取らないと経営が成り立たないんだって議論とが、教授会で喧々諤々やられた時期が結構あったわけですよね。落とす落とさない。

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