見出し画像

2015年12月24日 母他界(享年75)

緩和ケア科がある病院に転院したものの、治療の甲斐なく、2015年12月24日15時32分、母が他界しました(享年75)。
転院前に緩和ケア科⻑さんと⾯談させていただいた際、「どんなに⻑くても1か⽉しか⼊院できない。その後は在宅治療になる」と⾔われておりまして、年明けから⺟の介護で⼤変になるだろうが、頑張りますか💪と思っていた⽮先の他界でした。

母には妹さん、つまり叔母が最期まで付き添ってくれました。死期が迫ると病院から、私物は持って帰れと言われるので、私は荷物を持って自宅に。自宅到着寸前に、叔母から母が他界したという電話がありました。母は自分が死にゆく様を息子に見せたくなかったのだろうか。

主治医の先⽣は私と同年代、主任看護師のお⺟様は⺟と同じ年齢だとのことで、まるで⾃分の親を診ているような感覚だったのではないでしょうか。スタッフの⽅々は、「延命治療は⼀切しない」という病院の⽅針に半ば逆らうかのように、最後の最後まで⺟を⽣かそうと奮闘して下さいました。亡くなる直前にはリハビリ科の先⽣がやって来て、「⾼橋さん、リハビリしましょう!」と声掛け。そうしたらうっすらと⽬を開き、消えゆく声で「ありがとう」と言葉を発し、事切れたとのことです。はっきりと聞こえたのは「あ」だけでしたが、唇の動きから「りがとう」と読み取れたそうです。

私の高校の入学式当日に子宮筋腫の手術、その後は卵巣嚢腫、⻩斑円孔、食道がんに肺がんと、何度も⼊退院を繰り返す満身創痍の激動の人生でした。私も私で、勤めていた頃は、職場~病院~家を往復する⽇々でした。緩和ケアから退院後は在宅治療になると言われ、つまり、介護生活の始まりになりますので、親族に介護その他諸々の負担をかけさせたくなかったのではないでしょうか。生前から、お前らの世話にはならないと言っていたので、有言実行、実に母らしい最期だったと思います。

入院中はせん妄を起こし、窓を閉めろと言うから閉めたのに、「窓が開いてるから閉めろ!」と言われたり、そうかと思えば瞬間的に回路がつながったかのようにまともになったりと、大変でした。
せん妄からか私を自分の妹と思い込み、「三つ編みはこうやってやるんだよ」と、私の短髪のサイドを触り、無理やり三つ編みを作ろうとしたのがおかしくもあり、悲しくもありました。普段、サイドを刈り上げているので、「この短い髪をどうやって三つ編みにするんだよ!」と、心の中でツッコミを入れたのは言うまでもありません😂

「退院したら千葉に⾏って、美味しいなめろうでも⾷べてこようか。故郷の新潟に先祖の墓参りに⾏き、親類や友人に挨拶してこよう」と⾔っていたので、残念極まりないです。それで代わりに私が新潟へ行ったというわけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?