教育勅語論争と戦後教育史の見直し

●「80歳の壁」をいかに迎え超えていくか

 1週間渡米していたので休載したが、連載を再開したい。5月7日から連載を開始し、3カ月になるが、1日に複数の拙稿を掲載したこともあるので、既に約100回連載したことになる。男性の平均寿命である72歳の夫婦がいかに80歳を迎え、昨年の年間ベストセラーである和田秀樹『80歳の壁』をいかに迎え超えていくかに直面している。
 和田氏によれば、その高い壁を超えるためには、嫌なことは我慢せず、好きなことだけをすることが大切だという。血圧や血糖値は低くなくていい、ガンは切らない、など楽して壁を越えようという提案には一理ある。
 私の妻は現代医学に不信感を抱いており、医者から原始人みたいだと呆れられている。健康診断を勧められても一向に応じる気配がない。病気になっても病院には入れないでくれという。私自身も小学生の時に移動性盲腸の手術で入院した以外は入院したことがない健康体であるが、これまでのストイックな生き方から肩の力を抜いて自分が本当にしたいことを「やってみよう」「ありがとう」「何とかなる」「自分らしく」の幸せ4因子(前野隆司)を大切にして生きていきたいと思っている。

 本ノートも大学卒業後半世紀に亘って私自身が取り組んできたライフワークの中から、朝目覚めて書きたいと直観的に思いついたテーマと問題意識を「自分らしく」選んで、紹介していきたいと思う。今日のテーマは、教育勅語問題である。詳しくは、拙稿「教育勅語の教材使用問題に関する歴史的一考察」(『歴史認識問題研究』第2号,2018)を参照されたい。

教育勅語の教材使用問題

 教育勅語の教材使用問題については、日本教育学会がかつて研究報告書を公表し、「教育勅語には現代でも通用する『普遍的な価値』はまったく存在しません」と断言し、教育関連学会や日教組・全教(共産系)などが相次いで反対声明を発表した。
 同研究報告書の「Q&A」によれば、「井上哲次郎が執筆した『釈明教育勅語衍義』(1942年)では、『夫婦相和シ』について、妻は夫より知能が劣るから夫が無理非道を言わないかぎり夫に従うべきだ、という意味の解説をしています。また、「一旦緩急アレハ・・・」は「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ」(文部省図書局「教育に関する勅語の全文通釈」1940年)という意味ですから、日本国憲法の三原則のいずれにも矛盾します」と述べている。

井上毅が教育勅語起草に当たって留意したこと

 しかし、『明治天皇紀』によれば、『釈明教育勅語衍義』は「私著として上梓」されたと書かれており、「この書、修正の如くせば可ならん。しかれどもなお簡にして意を尽くさざらんものあらば、また(井上)毅と熟議してさらに修正せよ」という明治天皇の御言葉が記されている。井上はこの明治天皇の叡慮に従わず、「毅と熟議」どころか、「撥ね付けた」のであった。それ故に、「私著として上梓」されたのであり、決して教育勅語の公式解釈ではなかった。
 井上毅は教育勅語の起草に当たって、「宗旨上の争端」「哲学上の理論」「政事上の臭味」「漢学の口吻と洋風の気習」などを極力避けるように細心の注意を払ったが、後年の文部行政は教育勅語を「唯一絶対視」したために、実際には「政事上の命令」の如く歪められてしまったのである。
 また、「一旦緩急アレハ」の一節が問題視されているが、「義勇公ニ奉」じる愛国心などがむしろ欧米では高く評価されたのである。ラフカディオ・ハーン著『知られぬ日本の面影』に教育勅語の英訳文が掲載され、末松謙澄と菊池大麓がロンドンで、金子堅太郎がニューヨークで、吉田熊次がベルリンで教育勅語を紹介し、大好評を博した。そこで文部省は『漢英仏独教育勅語訳纂』を公刊し海外の要所に配布した。
 例えばイギリスでは、教育勅語は日本の急速な発展を促した指導原理として、次のように積極的に評価された。「我々に有益なのは、日本人の永き太古の伝統」「教育勅語は寛大な威容を湛えている。教育勅語は過去の力をもとに将来へと前進していくことを求めている」「過去の最良なものの真髄を見事に保守」「われわれはそのなかに隣人に対する義務を示している点で、英国国教会の説教と結びついた聖パウロの教えのようなものを聞くようである」(平田諭治『教育勅語国際関係史の研究-官定翻訳教育勅語を中心としてー』風間書房、平成9年)
 教育勅語の道徳規範まで危険視し、教材化自体をタブー視するのは不見識である。教育勅語と教育基本法が両立していた戦前と戦後の連続性を全面否定することは「歴史に対する欺瞞」である。しかし、この傾向は文部官僚のトップにも見られる。

前川元文部次官の暴論

 この「一旦緩急アレハ」の一節について、前川喜平前文部事務次官は次のように述べている。「教育勅語の最後には、もし総本家に大変なことがあったら、何を置いても駆けつけて、命を捨ててお支えしろと書かれています。一人一人が独立した人間として心と心でつながるのではなく、もともと血でつながった『共同体』だということですね。そのような考えでは、血でつながっていない人たちは『よそ者』で、ほとんど『人間扱いしなくてよい』ということになってしまいます。こういう考えがあるため日本の国籍法も血統主義から離れられません。」(『女たちの21世紀』92号、平成29年12月)
 また、道徳教育についても、「道徳教育は、子どもたちの心を国の方に近づけていく、心を支配するような意図が働きます。・・・徳目には『家族』が登場します。無条件に『良いこと』として『父母及び祖父母を敬愛する』と書かれているのです。実際には敬愛できない親はいます。・・・無条件で敬愛しろなんて不条理です」と指摘し、驚くべきことに次のように述べているのである。
「文科省は、これまで現場の教員を飼い慣らそうとしてきました。・・・日教組はもっと力を持ってほしいです。安保法制などが出てきた時には『教え子を再び戦争に送るな』という日教組の原点に立ち返り、もっと闘ってほしかったと思います。・・・私は、国家公務員をやりながらも、心の中で『私はアナキストだ、コスモポリタンだ』と思っていました。・・・個人と世界との間に国がなくなってもいいと思っています。」
このような思想の持ち主が初中局長時代に作成したのが『私たちの道徳』という教材で、これについても「この内容について非常に不満でした。例えば、家族については、お父さんとお母さんがいる家族が当たり前という前提で書かれていました」と批判している。
 第一次安倍政権時代に「道徳の教科化」が見送られた背景には、中教審や文科省内部に反対論が強かったからであり、このような思想傾向は前川氏個人にとどまらない実情を直視する必要がある。
 教育学関連学会の声明によって浮き彫りになったのは、歴史を無視し、今なお教育勅語を感情的にしか議論できない戦後日本の歴史学・教育学研究者の怠慢である。「教育勅語体制から教育基本法体制へ」というように戦前と戦後を単純な二分法の対立図式で捉え、この固定的な評価を曇りのない眼で包括的に見直し、客観的に再検討するという歴史研究が皆無に近いことは驚くべきことである。

道徳教育の理論的研究を妨げてきたもの

 戦前と戦後の連続性と非連続性の両側面を実証的研究によって、イデオロギー対立の所産として導き出された「戦後教育史の『教育勅語体制から教育基本法体制へ』という定説の虚構」を根本的に見直す必要がある。戦前と戦後を対立的に捉える固定観念が修身科と教育勅語をタブー視し、文部省対日教組のイデオロギー対立の争点となってきた道徳教育をめぐる不毛な論争を招来し、修身教育の功罪が学問的に検証されず、道徳教育の理論的研究を阻んできたのである。
 臨教審の教育基本法論議によって、この戦前と戦後の対立を対立的に捉えるイデオロギー対立からの脱却が試みられ、道徳教育の見直しが行われたが、思考停止に陥った日本の歴史・教育学者たちは臨教審の本質的な問題提起を真正面から受けとめようとはせず、道徳教育の理論研究、実践研究、教員養成、教員研修は機能不全、構造的な「負のスパイラル」に陥ってしまったのである。これが戦後の道徳教育が形骸化した歴史的要因といえる。

江崎道朗氏が解明したコミンテルンの実態

 日本教育学会・歴史学会の「ガラパゴス化(世界標準からかけ離れている日本の現状を批判的に表した新語)」はかなり重症であることを物語っているのが、「高大連携歴史教育研究会」歴史用語削減案である。
 とりわけ、近現代史、日米戦争、日本占領に関する日本の歴史学会・歴史教育研究のガラパゴス化は深刻である。アメリカでは近現代史の見直しが行われ、ルーズベルト政権の対外政策が厳しく批判され、同政権内部に潜り込んだソ連の工作員・協力者たちの動向がいかなる影響を与えたかの実証的研究が進み、多くの著書が出版されている。
 1995年に公開された「ヴェノナ文書」によって、ソ連・コミンテルンのスパイの交信記録が明らかになり、トルーマン大統領の側近はこれらの工作員・協力者に乗っ取られていたことが判明した。
 また、英国立公文書館所蔵のM15(英国内のスパイ摘発や国家機密漏洩阻止などの防諜活動、テロ組織の情報収集や取り締まりを狙う英情報局保安部)が調査した個人ファイルの「共産主義者と共感者」というカテゴリーに分類された「ノーマン・ファイル」によって、カナダ外務省からGHQ対敵諜報部調査課長として出向し、昭和天皇とマッカーサーとの会見に同席したノーマンが共産主義者であったことが明らかになった。
 さらに、米政府の「対日心理戦略」を研究・推進したOSS(戦略諜報局)とOWI(戦時情報局)の専門家の多くは、コミンテルン・中ソの共産主義者と深い関係にあり、そのメンバーがGHQ民間情報教育局の幹部になって、戦後日本の教育改革を主導した。彼らが日本に対してどのように働きかけたかについては、OSS文書などに基づいて江崎道朗氏がPHP研究所から出版した新著を参照してほしい。

WGIPの実践的原型

 マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソン証言(1957年3月12日の米上院国内治安小委員会)によって、WGIPの実践的原型の一つは、中国の延安における毛沢東の戦略に基づく日本兵捕虜洗脳教育にあったことが判明した(拙著『日本を解体する戦争プロパガンダの現在ーWGIPの源流を探るー』宝島社、平成28年、同『WGIPと「歴史戦」』モラロジー研究所、参照)。
 コミンテルンの日本代表であった野坂参三は「軍国主義と人民・兵士を区別する」という毛沢東の基本方針に従い、徹底的に日本人捕虜の思想改造を行う洗脳教育を陣頭指揮し、この洗脳教育が対日心理戦略に活かされ、WGIPとして結実した。この洗脳教育を受けた日本人捕虜1000人の供述書を中国はユネスコ「世界に記憶」に追加申請したのである。

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