波乱に満ちた年明けに、人生の予期せぬ出会いに感謝する

   新年早々の大地震、波乱に満ちた年明けである。元旦早々に光吉俊二氏から連絡があった。今は起床したばかりの午前2時であるが、1時19分に、ひらめいた数式や直観的メッセージの長文が届いた。12月11日に「依頼されていたウェルビーイングの数式が完成しました」「好奇心が対立を消すことも数理で示すことができました」という長文の報告を受けて以来の凄い報告だ。その内容は公開できないが、光吉氏の直観的メッセージと独自の数式は早朝に天から降りてくるようだ。
 昨年9月21日に、この不思議な天才に出会ったことが、「慢性硬膜下血腫」で時々意識が混濁し、元気を失っていた私を活気づけ蘇生させた。天の配剤と言うしかない。手術前であったにもかかわらず、元気を取り戻し、noteに文章が書けるようになり、熱い講演もできるように回復した。

●人生の予期せぬ出会い
 73歳の正月を迎え、今日まで私を導いてくださった方々に改めて感謝したい。人生の予期せぬ出会いによって新しい人生へと導かれ、米大学院留学→
→在米占領文書研究→明星大学専任講師→臨教審専門委員就任→玉川大学大学院講師→埼玉県教育委員長→師範塾塾長→男女共同参画会議議員→親学推進協会理事長→麗澤大学大学院特任教授→麗澤大学特別教授へと進んできた。

●二人の恩師との出会い
 それらの不思議な神縁の積み重ねによって今日の私が存在するわけであるが、改めて思い起こすと、まず第一の出会いは、学生時代に毎月ご自宅で指導を受けていた恩師から、「全学連と対決するのではなく、領導してほしい」と言われたことである。「対立を乗り越える」という課題を突き付けられたことが半世紀を経た私の今を突き動かしている原動力と言える。
 対立を乗り越えるためには、「平和と民主主義」を教えられた戦後世代がなぜ毎日大学のキャンパスで激しくぶつかり合い、「平和と民主主義」の建前とは全く相反する現実に直面しているのか、という根源的な疑問を突き付けられ、学生運動の対立の背景にある「戦後史」の検証が必要であると感じて、米大学院に留学して在米占領文書研究に没頭する決意を固めた。
 第二の出会いは、早大大学院の指導教授で仲人もしていただいた児玉三男明星大学学長との出会いである。東大入試が安田講堂事件で中止になった昭和44年に早大に入学した当時は全国で大学紛争が吹き荒れ、入学式のみ行われ、翌日から革マル派による無期限バリケードストライキが決行され、半年授業がなく、途方に暮れた。
 やっと始まった授業だったが、革マル派の活動家が教授一人ひとりを厳しく追及して、正常な授業が行われない異常事態の中で、ひときわ目立ったのは、文化人類學の西村朝日太郎教授であった。活動家が怒鳴り立てる大教室で、「皆で起立して早稲田の校歌を歌おう」と呼び掛けて校歌の大合唱となり、不思議な一体感が生まれ、その後静まり返った中で見事な講義が行われた。
 深く感動した私は西村教授の自宅の門を叩き、毎週先生宅で教えを乞うた。西村教授は旅行をしながら絵も描かれたが、私も同行し、色々と個人指導をしていただいた。また、養護学校の先生に出会い授業を半年見させていただき、障害児教育こそ教育の原点だと思って、大学院で教育学を学びたいが、西村教授に指導教授を推薦してほしいとお願いしたところ、児玉教授を紹介された。

●占領史研究の飛躍的発展
 米大学院に留学し、3か月後に到着した妻が”I can speak english well"と寝言で言ったのには度肝を抜かれたが、英語で苦労している私の横で、ワシントンD.C.からボストンまで行く列車の中で5時間近くアメリカ人と会話し続けている姿にも驚かされた。きれいな発音のQueen Englishで自由闊達に会話する妻は、初めてのアメリカの地で水を得た魚のように活き活きとしていた。
 深夜に児玉学長から電話があり、ワシントンD.C.に行くから会いたいとのことであった。GHQの民間情報教育局文書(917箱、約240万頁)の研究をしているが、年間100枚しかコピーできない規則なので、筆写した史料が段ボール箱数箱に及ぶという現状報告をしたところ、「そんな手作業で研究している場合じゃない。明星大学創立記念事業として予算化するから、マイクロフィルムに収めて日本に持ち帰り、占領教育史研究センターを設立して共同研究しよう」という事になった。
 同文書の重要文書であるトレイナー民間情報教育局教育課長補佐の文書はスタンフォード大学のフーバー研究所に所蔵されていたので、フルサイズのアメリカ車にワシントンD.C.で買った布団を積んで1週間でアメリカ大陸を横断し、サンフランシスコの南に位置するパロアルトに移動した。直ちにフーバー研究所と日本の国立教育研究所と明星大学の三者で契約を結び、明星大学は500万円支払い、国立教育研究所は日本国内に所蔵されている占領文書のマイクロフィルムを提供し、フーバー研究所はトレイナー文書のマイクロフィルムと交換することで合意した。
 帰国後、「占領教育史研究センター」が大学の肝いりでスタートし、児玉学長がセンター長、大学の幹部役員全員が理事に就任し、毎月定例会を開催し、学生サークル「戦後教育研究会」も人気サークルとして多数の学生が結集した。イリノイ大学のハリー・レイ教授を招聘し、コロンビア大学のハーバード・パッシン教授も招いてシンポジウムを開催し、朝日新聞と日本経済新聞に大々的に報道され、一躍脚光を浴びることになった。

●香山健一学習院大学教授との出会い
 3年間在米占領文書研究に取り組んだ新進気鋭の研究者がいるという情報が中曽根総理に伝わり、政府の臨時教育審議会の専門委員に抜擢された。その背景には、保守系の文化人が総結集した「日本文化会議」の企画委員(舛添要一・川勝平太氏と)に選ばれ、同会議の合宿で中曽根政権のブレーンであった学習院大学の香山健一教授との出会いがあった。
 教育基本法の成立過程と教育勅語の廃止過程について報告したことが注目を集め、臨時教育審議会の設置法に「教育基本法の精神に則り」という文言があったため、教育基本法の成立過程について在米占領文書の実証的研究並びに関係者インタビュー(トレイナー氏と日本人通訳・高橋昇氏)に基づいて論文と著書を出版した私に白羽の矢が立ったのである。
 臨教審には教育学者は私一人であったため、いじめや不登校などの教育問題への対応策についての質問がマスコミから殺到(大学の授業に押し駆け、授業後車で移動先まで送るから取材に応じてほしいと無理強いする新聞社もあった)し、そのニーズに応えるために私は全国のフリースクールや少年院、教護院などを訪問し、実際に子供が立ち直った実践を理論化する「臨床教育学」に取り組むようになった。
 それが玉川大学の小原学長の目に留まり、玉川大学大学院の修士・博士課程の院生に臨床教育学を教えることになり、玉川大学出版部から『臨床教育学と感性教育』『(スマッツ著・髙橋共訳)ホーリズムと進化』を出版し、神奈川県教育委員会の不登校対策協議会の専門部会長として、『学校に行けない子供たち』という冊子を責任編集して、県下の全小中学校に配布された。
 玉川大学で開催された日本教育学会のメインシンポジウムのパネラーとして、東大の佐藤学教授(日本教育学会会長)と熱い議論を交わしたことも懐かしい思い出の一つであるが、難解な専門用語が多く悪戦苦闘しながら数年かかって翻訳したホリスティック教育の原書『ホーリズムと進化』からは「主体変容」の根本思想を学ばせていただき、後の師範塾や親学の根本理念となった。
 明星大学のゼミ1期生のゼミ長から東大の藤岡信勝教授が明治図書の月刊誌に連載された論文があることを知らされ、旧知の西尾幹二氏に連絡して調布の喫茶店で3人で会ったことが「新しい歴史教科書をつくる会」発足の契機となった。坂本多加雄氏・小林よしのり氏(林真理子・阿川佐和子氏も設立発起人の一人であった)も加わり、後に私は同会の副会長も務めた。
 上田埼玉県知事との出会いは、赤坂で開催された私の講演会であった。全国の教育現場を行脚して問題行動の子供たちが立ち直った実例を熱く語ったたことが知事の心の琴線に触れたようである。全く面識はなく、一番前の席で熱心に耳を傾けられていた紳士がいたことは強く印象に残っていたが、それが上田知事であった。
 
●親学の挫折が飛躍台となった新たな人生への旅立ち
 読売新聞にオクスフォード大学の学長が学長会議で「大学で親になる方法を教えていない」ことが問題であるという提起が大きく報じられたことが、「親学会」発足の契機となり、PHP研究所内で開催された1年間の「親学研究会」の成果をまとめて『親学のすすめ』がPHP研究所から出版された。
 これは共同研究の成果であったが、有志でお金を出し合って「親学推進協会」を設立しようということになり、300万円を出資し理事長に就任した。日本財団から1億円以上の助成支援を得て千数百人の「親学アドバイザー」が誕生した。超党派の「親学推進議員連盟」が結成され、議員会館で議員勉強会を積み重ね、親学推進法の制定を目指していたが、ある団体の妨害活動によって断念を余儀なくされた。
 日本財団の笹川会長が発達障害の親の会の代表と繋いでいただいて、「発達障害の原因は親の愛情不足と説く親学」というとんでもないマスコミの誤報・誤解が解けて握手を交わした後に、この妨害活動が国会議員に対して組織的に行われたが、関係者に迷惑がかかるため、その事情を公にできないことは残念至極である。

●中西輝政京大教授・廣池理事長との出会い
 生まれて初めて挫折し、「出過ぎた杭は打たれない」と豪語してきた信念をくじかれ、失望の極にあった時に出会ったのが京都大学の中西輝政教授であった。私は靖国神社崇敬奉賛会のシンポジウムの進行役を20年以上続けており、その時に出会った中西教授から「あなたが研究している占領史研究は、『菊と刀』の著者であるルース・ベネディクトの文書を研究しないと解明できない」とのアドバイスを受け、平成24年12月にニューヨーク郊外の母校ヴァッサー大学に所蔵されていたベネディクト文書の研究に取り組み、ベネディクトに決定的な影響を与えたゴーラー文書が保存されていたイギリスのサセックス大学にも足を運んだ。その経緯は『WGIPと歴史戦』(モラロジー研究所)に詳述しているので参照してほしい。イギリスの出版社から、分かりやすい英文でWGIPを解説してくれないかと依頼されている。
 海外研究に力を入れるために、明星大学の授業はゼミのみにして教授会出席など一切の業務を免除される「特任教授」(給与は3分の2に減給)という身分を選んだことをモラロジー研究所(現モラロジー道徳教育財団)の廣池理事長にお会いした際にお伝えしたところ、「それなら、麗澤大学に来てもらえないか」と声をかけていただき、新たに設置された道徳教育専門の同大学大学院の特任教授に就任し、一昨年から同大学特別教授に就任して今日に至っている次第である。
 親学で生まれて初めて挫折したことがスプリングボードとなって、占領史研究というライフワークに立ち戻って再出発し、廣池理事長と出会ったことによって、西岡力氏と共に「歴史認識問題研究会」を結成し、新たに「道徳教育の科学的研究」というライフワークに取り組む契機となった。
 昨年、東大大学院道徳感情数理工学講座をリードする光吉特任准教授と鄭雄一教授と出会い、「数理工学」や「哲理数学」(京大)と「道徳科学」の接点を探るという新たな研究テーマを与えられた。
 何事も10年続けないと本物にはならないという信念の下に、親学、師範塾(東京・埼玉・大阪・福岡)を10年以上続け、大谷翔平は大阪師範塾2期生の原田隆司先生の指導によって「目標達成シート」などを通して世界を代表する野球選手に成長した。70歳の定年を機に開塾した髙橋史朗塾は師範塾や親学の継承発展を目指し、80歳まで10年間続けて人生を締めくくりたい。
 
 
 


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