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人のボトルの味って。

最近、ようやく総会など、懇親会付の会合が開催されはじめている。

この数週間、週に3~4日は夜の予定が入る。コロナ前の状況に戻りつつあることを、初老に入りつつある私にとっては、近頃は身をもって感じる。

先日、とある総会の懇親会終了後、普段なら速攻帰るのだが、大変お世話になっている方より「軽く飲まないか」とお誘いを受けた。

軽くならということで、場末的なスナックに招かれた。

お店に入り、その方は「○○のボトル残っているか」と、知人なのか、取引先なのかは分からないが、別な方の名前のボトルが用意された。私は心の中で「人のボトルかぁ」と複雑な心境になりながらも、その「人のボトル」を進まれるまま美味しくいただいた。
(念のため、後日、そのボトルを飲んだことを持主に報告するとのこと)


少し長くなったが、この状況は、与党が政府に予算要求をし、野党は反対しなのに何故か、予算が可決され執行された途端、その予算を要求してくるという、人のボトルを勝手に飲む行為に似ている。
または、人のふんどしで相撲を取るとも言うか。

問題・課題があり、今後どのようなことが想定されるため、そうならないために議論し、検討し、限られた年度予算から、どの程度の予算を執行すれば回避できるというシミュレーションを重ねることから、ようやく国会なり地方議会なりで諮ることとなる。

そのような手間暇かかる一連の作業の先に、国民・県民へと還元する予算が使われるわけであるが、それは与党であるからこそ実現できるのである。


私自身も、地元の陳情をお受けした際には、その都度、県の担当部局に丁寧にお願いし、多くの課題を事業化してきた。それなりの苦労や労力も伴いながら。


別に手柄が欲しい訳でもないので、あまり気にしてこなかったが、私が手間暇かけて実施された事業が、たまに他の同業の手柄になっていることがある。

正直、えっ!って感じで驚くこともある。

つまり、美味しいところだけ持っていかれたってことである。
分かる人は分かっているので、あまり気にはしていないが。


人のボトルを黙って飲むということは、それに近いのか。などと、飲みながら勝手に考えていた。確かに美味しかったのだが。

次回、その方と同じお店でお酒を飲む機会があった時、人のボトルなのに、ネームまで変わっていないことを祈る。

竹島や北方領土問題にも似ているのか。