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私は私であるということ

 両親・先生・或いは誰からも無条件に可愛がられた記憶が無い。そして手放しで褒められたことも無い。
 まだ小学生のころから一生懸命に勉学には勤しみ、大人になってからも幾つもの資格を取得した。少女期のそれは明らかに両親に認めてもらいたいためのものであった。成績が上がると父も母も「えらいね」と言ってはくれたが、必ず付け加えるのは「さすが我が子だ」の言葉だった。資格取得は両親を唸らせるためでもなく、周りから賛辞を受けるためでもなく、仕事上で必要だったから、とか、または、趣味が高じてのものではあった。しかし、資格がひとつ増えるごとに、周りに「頭がいいのはやっぱり、あの親御さんの血を引いている証ですね」と言われる始末でガッカリした。
 ところで、二年ほど前に某新聞社のエッセイ欄で絵本紹介の記事を連載する機会が与えられた。闘病中の私は病を押しての執筆であったが、身に余る光栄なチャンスをいただけたことが嬉しく筆が躍った。読者からの反応も良く、ファンレター(?)が送られてきた。
新聞のエッセイ欄を書いたのは私。ところが、私の母が歌詠み人だと知った人たちは、一様に同じ反応を示した。「このような感動の記事をお書きになられるなんて、さすがは歌人の母上様を持つ血筋ですね」
なんと、まったく、泣きたいほど意気消沈した次第だった。
 さて、あくまでも自己流で文章を書き続けてきたのだが、私が私であるために正式に「エッセイの書き方」を学ぼうと、ある時に決心をした。地域でも名のとおった作家先生の門を叩き、果たしてそれは開かれた。作家先生のもとへと車椅子で通う道が開かれたのだった。ところが、それからしばらくして病は容赦なく私を苦しめ、師のもとへ通う外出すらままならなくなった。師である作家先生へお手紙を書き、身体が動かないことなどを詫びた。エッセイ書きをあきらめようと思った。しかし、師からのお返事は、やめても結構ですよ、ではなかった。
「あなたにはあなたしか書けないものがある」との内容で、エッセイを書き続けるために協力を惜しまないとのお返事であった。私は生まれて初めて、私が私であることのアイデンティティーを認められたのだった。しかも手放しで!
 その後、お返事をいただいてから一ヶ月も経たずして、師は89歳で逝去した。ご高齢とはいえ突然の逝去であった。これはつい先日のことだ。
 せめて献花をしたかったが家族葬とのことで、私はただ、自宅で涙する以外なかった。
 生まれて初めて無条件に手放しで「私」という人間を受け容れてくださった師。「私は私である」アイデンティティーに自信を持たせてくださったことを、これから先も、決して忘れない。
−恩師の逝去に寄せて、このnoteに記す−

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