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心模様

きのう、インターネットで某ジュエリーブランドのホームページを眺めていた。「ファッション・リング」が欲しかった。

閲覧しているサイトの中に、果たして、好みの指輪はあった。
掲載写真の下に商品説明がある。「ダイヤモンドが輝きを放つ気品あるリングです」

私は猛烈にそれが欲しくなった。しかし、お値段は私には手の届かないものであった。いや、わずかの蓄えを崩して手に入れることはできるかもしれない。いやいや、そんな予備費の貯蓄を崩したら今後の日常生活に支障がでるかもしれない。

結局、その夜は悶々としたまま過ごし、寝る時間になるころには、悶々が苛立ちに変わり、真夜中になるにつれて、今度は惨めさに襲われた。「日頃、贅沢品を買っているわけじゃないから、たまに指輪くらい欲しい」
と思ったのだ。そのうちに明け方になった。夏が近い今の季節は陽が昇るのも早い。

ところで、私は気管支喘息をも患っているので、毎日、早朝に起床してステロイド吸入をおこなう。あの指輪のことを考えて眠れないままに、朝が訪れてしまった。吸入をしなければならない。頭と目は冴えていた。ステロイド吸入をしながらも、あの指輪を買えない身の上に悲嘆していた。

吸入ののち、洗顔も済ませた。

ふだんならば朝からテレビ番組は観ないというのに、珍しくテレビ電源のスイッチを入れる。ハッと我に返らざるを得ない番組内容だった。

テレビでは、ある女性牧師の活動を紹介しながら、キリスト教の本質に迫っていた。

その女性牧師は路上生活者の支援活動に携わり、大変な状況下の方々に寄り添いながら、聖書の(キリストの)愛を説いていた。

女性牧師は自らの幼少期の貧しかった家庭環境や身体の不自由さゆえに、いじめられた体験、また離婚経験からくるところのツラサから、自身を「小さい者」と称していた。そうして、路上生活者への支援は「同じく小さな方々」へ心を寄せての活動をなされていた。私はそれでハッと我に返ったのであった。常日頃、私も「痛みや苦しみを経験しておられる方々の心に寄り添いたい」と願っているひとりなのだ。

けれども、きのうから、夜も眠れないほどに指輪を欲しがり、買えないことを落胆して無為に時を過ごしていたのだ。我が事ながら、なんとも穴があったら入りたいほどの醜態ではなかろうか。

さて、私が「痛み苦しんでおられる方々に寄り添いたい」と願っているのは、上から目線のものでもなければ、いっときの感情に任せた発想でもない。なぜ私は「寄り添い」をしようとしているのか。それは、ほかでもなく、私自身が決して恵まれた環境の中では育たなかったこと、壮絶ないじめられ体験や、暴行を受けたこと、経済的にも窮する暮らしをしてきたことを身を持って体験してきたからである。それに加えて、一人息子の消息不明、離婚、十年余り前からは病や手術などの闘病生活となって臥していることから、「寄り添い」がいかに大事なことかと思わされているのだ。

「痛み苦しむ方々に寄り添いたい」というそれは、財産も子供も結婚生活も何もかもを失ったからこその境地である。

しかし、「痛み苦しむ人に寄り添う」と願いを持つ私が、キラキラとまばゆい輝きで瞬く指輪欲しさに身をよじっていたのでは、話にならない。
放映していた番組の女性牧師の姿からキリスト教の真髄を、もうひとたび知らされた。

私は我に返り、欲しがっていたあの指輪はスパッとあきらめた。

身の程知らず甚だしい。
反省はそればかりではない。たとえば宝飾類を一個ももっていないのならば、別なのであろうが、私は以前、パートナーであるKさんからプレゼントしていただいていたファッション・リングも持っている。すでにある物で満足せずに、次の物を欲しがる自分の、なんと欲深いことよ。

もう一度、気持ちをリセットした。私はジュエリーに執着するのではなく、これまでの悲しみを越えて生き直しをするチャンスを今、与えられていることや「寄り添い」の原点に戻ろう。

・・・そんなことがあった心模様のゆうべと今朝・・・

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