週刊タカギ #9(とお知らせ)
こんばんは、高城顔面です。
はやり病、まもなく完治しそうです。大変だった……。
本日は1/29(月)。一首評を掲載します。
筆者の第一歌集より。望月裕二郎は、江戸弁をベースにした口語短歌という、現代短歌の中においても、かなり異端な文体を操る歌人である。
このほかに好きな歌を二、三引いてみよう。
どの口がそうだといったこの口かいけない口だこうやってやる
そのむかし(どのむかしだよ)人ひとりに口はひとつときまってたころ
玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって
このポンポンとした調子で、歌集『あそこ』には、多くの江戸口調的な歌(歌に詠まれている景もかなり異質ではあるのだが……)が収められており、その異質さを少しでも感じ取っていただけたかと思う。こうなれば、歌集のタイトルも江戸っぽく「あすこ」と発音してやりたいくらいだ。ちなみに、この傾向の歌は歌集の前半に固められており、後半には、ややシュールで、限りなくドライな風景を描いた「現代語」の短歌も多く収められている。
今回引いた歌について述べていきたい。
まず一読して、いくつもの肉声がある歌だなあと感じる。()のなかに入っている(牛だろう)と(庭だろう)という野次のような掛け合いと、それらを挟む主体の地の文(と呼べるだろうか?)。このバランス加減がまず面白い。
歌意としては、地図で見た東京都の形について、主体含め、三々五々にけちょんけちょんに言ってやっている、というイメージをまず感じた。東京都(島しょ部を除く)の形状は、南北に短く、東西に長い形状をしている。その姿は真横から見た舌のようにも見える。
その直後に(おそらく)第三者の肉声による(牛だろう)(庭だろう)という掛け合いが入る。この掛け合いが入ることにより、短歌にとって異質な、多方向から介入されてゆく独特のリズム感が生み出されていく。
そこに畳みかけるような、主体の地の文の「なにが東京都だよ」という結句。江戸というもの(場所、地域と言い換えてもいいかもしれない)が主体の中で存在し続けていると仮定してみると、まったく江戸とは呼べない多摩地方や、「内藤新宿」と呼ばれ、いち宿場町だったかつての新宿も含めてしまうのは、ちゃんちゃらおかしいことであるのだろう。
いくつもの肉声と、調子のよいリズムと、結句の吐き捨てるようなスピード感、そして、歌の前提として成り立っている条件のおかしさによって、この歌は「おもしろい」と思えるのだろう。音読する機会があれば、声色の使い分けや、吐き捨てるスピード感も工夫して読んでみたいと思ってしまう一首だ。
実際のところ、この歌集は、発表時はもともと連作であった歌たちをバラバラに解体し、新たな歌を加え、三章仕立てに再構成している(巻末の東直子の解説より)という経緯があるようなので、意識的に一度解体・再構成されたものに、一首単位で歌意を汲み取っていくというのは(江戸情緒的にも)野暮な気もするが、個人的にはこう感じたということの記録として取っておこうと思う。
まったく、煮ても焼いても食えないが、ぬか漬けにしてみたら結構いけた、みたいな感じの歌たちである(金沢や佐渡の名産の「ふぐの子糠漬け」のような)。「どれどれ、そう言うんだったら読んでみようじゃないの……!」歌集のタイトルにも気後れしないぞ、という人にぜひ『あそこ』を薦めたい。ぜひ。
ここでお知らせです。
本企画「週刊タカギ」、元旦に始まって以来、月・金の週二回更新でやってきましたが、意外と大変なことが、ようやく身に染みてわかってきました。もともとものごとの同時並行が苦手な不器用な人間なのに、週二回更新を続けるのはなかなか骨が折れました……。
現在、同時並行で連作の制作中でもあり、今後予期されるアイデアの枯渇や、一首評の候補探しの時間の確保、突如訪れる体調不良(実際にあってかなりあせりました)に対する対策の意味も込めまして、今後は毎週金曜日のみ更新、一首評と短歌を隔週で載せていく方針に切り替えたいと思います。
なるべく持続可能な(どこかで聞いたことあるフレーズだな……)形で長く続けていきたいと思いますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
というわけで月曜日の更新は今回が最後になります。ありがとうございました。
次回は2/2(金)更新予定。短歌を掲載します。
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