週刊タカギ #39

こんばんは。高城顔面です。
体調を崩したり持ち直したりの日々です。

本日は11/15(金)。今回は短歌評です。


屋上から刻みキャベツをばら撒けばわたしも反社会的勢力

三田三郎『鬼と踊る』(2021,左右社)

曲がりなりに仕事に就いて、もう4年になる。
職務としては、非正規雇用の事務職になるのだが、体調を崩してしまうことが多く、これが正規雇用だったら……と思うことが数多くある。
現実は甘くはいかないことの方が多い。厳しい社会情勢、わたし自身もいつまで、この職自体があるか分からないし、地元の友人のK君は苛烈なパワハラに遭遇し、退職を余儀なくされているらしい。世の中はシビアだ。

そんな中、とびきりビターでブルージーで諧謔性のある状況下の歌を多く詠む歌人に、三田三郎がいる。

第二歌集『鬼と踊る』では、社会の中でなんとか(「かろうじて」といった方がよいだろうか)サヴァイヴし、(あまり美味しそうではない)酒をかっくらい、なんとか人間の形を保っている主体像が全面に押し出されている。まずは、何首か引いてみよう。

ソムリエはワインの味に詳しいが僕は煮え湯の味に詳しい
いざとなれば何でも巻けるこの首にとりあえず巻かれているマフラー
ありがとうと言って損することはないありがとうありがとうありがとう

一首目。「僕」が今まで多くの煮え湯を飲まされてきたことが直情的に伝わってくる、自虐感が強めの歌だ。トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭に「幸せな家族はいずれも似通っている。だが、不幸な家族にはそれぞれの不幸な形がある。』という一文があるが、「僕」が味わった辛酸や苦渋も、この一文に近いような感覚があるような気がしてならない。二首目。上の句がものすごく怖い。「いざとなれば何でも巻ける」のは何かということがなんとなく想像できてしまうようだが「とりあえず巻かれたマフラー」がギリギリの安全弁のように機能している。三首目の「ありがとう」という言葉にはある種の効力の限度があると個人的に思っていて、この歌の下句のように、機械的に何度も繰り返されると、謝意自体が、薄くなりすぎたカルピスのようになってしまうと個人的には思っている。ギリギリアウトなバランス加減だ。

この歌集の中での、主体の社会生活はかなりハードだ。「仕事」と「謝る」がセットになっているような、自己肯定感をグングン削られてゆくような景が描かれてゆく。

あらかじめ朝の虚空に50回謝ってから会社へ向かう
捨てられるための資料を作ったら怒鳴られるための電話をかける
マウンドへ向かうエースのようでした辞表を出しに行く後輩は

労働詠を引いた。一首目。「あらかじめ朝の虚空に50回謝」る……。そこまでしなければ生活をやってゆけないのか。あるいは、それ以上に謝ることがあるから、そのためのウォームアップなのか……。いずれにしても虚しすぎる景だ。二首目。プレゼン(だろうか)でもどうせボツになる、電話をかけたらどうせ怒鳴られる……。とても卑屈になってしまっている主体の姿が苦しい。三首目。「マウンドへ向かうエース」のように意気揚々と辞表を私に行く後輩。そして、その裏には、ここに留まる(留まるほかの選択がないのかもしれない)選択をした主体の姿がある。想像が膨らむが、なんともやるせない一首だ。

話は変わるが、大学時代に受けていた講義で「明治時代の最底辺の労働者は、暗い現実から逃れるために酒を飲む人が多かった」という話を聞いたことがある。最底辺というほどではないが、この歌集の中の主体の飲酒像もそれとどこかカブってしまうようなところがある。

焼酎が寄り添ってくれた 匿名の悪意ばかりが元気な夜に
世界中の因果がひっくり返っても酒を飲みたいから酒を飲む
歯で噛んだり舌で潰したりしなくてもいいからいい 液体はいい

一首目。「匿名の悪意」はインターネットでの罵詈雑言を彷彿とさせる。SNS、ニュースサイト、動画サイトのコメント欄、どんなところにも悪意は潜んでいる。そこに寄り添うのが「焼酎」とは、擬人化するにしてもあまりにも孤独感が強いものだ。二首目。「世界中の因果がひっくり返」る。相当なことである。それまでの正義と悪が裏返ってしまう。それでも主体は「酒を飲みたいから酒を飲む」。欲望と逃避が一緒くたになってしまったような歌だ。三首目。あらゆることに億劫になってしまった主体像が浮かぶ。歯で噛んだり、舌で潰したりしてこそ美味しいと感じるものは多々あるが、その感覚すら、もう面倒になってしまっているのだろう。液体が喉を通ることさえがまだマシなようにさえ思えてくる。

そんな主体にも残されているのは「想像する」という力だ。

屋上から刻みキャベツをばら撒けばわたしも反社会的勢力
ゴミ箱を探して街をさまよえばテロリストの歩幅になっている
ずっと神の救いを待ってるんですがちゃんとオーダー通ってますか

一首目。現状から一歩でも踏み出したい。「社会」という現状から脱したい。というときに浮かぶ発想として「屋上から刻みキャベツをばら撒」いて、「反社会的勢力」になる。あまりにも奇妙な逸脱の仕方であり、「反社会勢力」というよりも「おかしな人」になってしまうが、確かに現状から確実に一歩は踏み出せるだろう(たぶん)。二首目。街中のゴミ箱は処理の問題や事件の原因になることもしばしばあり、急速に街から姿を消している。駅のホームで買った食べもののゴミを捨てるゴミ箱が見つからないなんてこともしばしばだ。ゴミ箱がなかなか見つからない、けれど、街に捨てるわけにはいかない。そんな良心がはたらいているにも関わらず、ゴミ箱自体を利用することもある「テロリスト」の歩幅になってしまっているのはなんとも皮肉だ。三首目。「神の救い」という抽象的なものを、居酒屋のメニューの注文が通っているかのように確認する。絶対に、主体は信心深い方ではないのだろうな、というのが見え透いているような一首だ。

全体を通して『鬼と踊る』の中での主体像は、自己肯定感が低く、どこか満たされず、不満を持ってやさぐれた生活をしている。しかし、それをギリギリのところでひっくり返すような発想や(ブラック)ユーモアも兼ね備えている。通底した、その「黒さ」が、オセロをひっくり返すようにパタパタとその場を支配してゆく。三田三郎は、そこまで意図をして歌を詠んでいるのか。そうだとしたら、かなりの策士だし、そうではないとしたら、三田には無意識の天賦の才が与えられているといっても過言ではないと言えるだろう。まったく、毒にも薬にもなる一冊である。


次回は、高城の歌会参加(ちょうど金曜日夕方なのです)のため一週お休みして、11/29(金)更新予定。短歌を掲載予定です。

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