週刊タカギ #23

こんばんは。高城顔面です。
父が誕生日なので、あとでお祝いの電話をします。


きょうは6/7(金)。一首評を掲載します。

グッモーニン人生どうでも飯田橋人生どうにか鳴門大橋

初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』(書肆侃侃房,2022)

短歌をそれなりに長くやっていると、「愛唱歌は何か?」と言う問いが増えることが多いという。
わたしは、文章の記憶力があまりないので、短歌をはじめる前、中学生の頃に、国語便覧で、「こんな短歌があるんだ!」というインパクトを受けた、

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」/穂村弘(『シンジケート』より)

と、短歌をはじめたての頃に刺激を受けた、松木秀(蛇足だがわたしと同郷である)の、

かねんぶつふねんぶつなむあみだぶつぶつぶつしつつごみのぶんべつ/松木秀(『5メートルほどの果てしなさ』より)

が、個人的に脳裏からすぐに引き出せる愛唱歌である。

しかし、その二大巨頭の中に、新顔があらわれた。初谷むいの歌である。

初谷の短歌の特長は、句またがりや、字余り、休符のような独特の字空けを多用した大胆な文体に、センシティブな感性が呼応している点にあると、個人的に思っている。いくつか特徴的な歌を引いてみよう。

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのに君が「ん?」と振り向く
カーテンがふくらむ二次性徴みたい あ 願えば春は永遠なのか
酩酊。酩酊。このこえはおのおのだいじにしてほしいことばをいまからつたえるこえです。

(第一歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房,2018)より)

一首目は、67676の32音という変則的な構成だし(※わたしは数字を扱うことが極度に苦手なので間違ってたらすみません)、二首目は先述した、休符(ここでは一時停止といってもいいかも)のような字空けが巧みに生かされている。三首目にいたっては大胆な破調であり、43音(※同上)という大胆にもほどがある字余りっぷりである。けれども、この三首の中では個人的に一番好きだ。(「酩酊。酩酊。」が救難信号の「メーデー」にかかっていそうなところも)しかし、個人的には好きなのだがどうにも覚えにくいのだ。

今回の表題歌(?)に戻ってみよう。

「人生どうでも飯田橋」はネットミーム的なシャレであり、わたしも初見はとある漫画家の方のツイートであった。ポジティブな感じはあまりないが、これはこれで完結している世界である。
しかし、そこに初谷は「グッモーニン」(「Good Morning」ではなく、さらに軽い調子のカタカナの「グッモーニン」なのが最高!)と、アンサー的な「人生どうにか鳴門大橋」という二つのポジティブの塊をぶつけて、オセロのように、一瞬でネガティブをポジティブに反転させた。実にエポックメイキングで、初見の瞬間に「これは!」と抜群に好きになった歌だ。しかも覚えやすい。なので、この歌はわたしの愛唱歌のひとつとなった。

ほかに、『わたしの嫌いな桃源郷』で好きだった歌をいくつか。

凍るなら蜘蛛。うつくしいその脚は朽ちるより割れる方が才能
きたなさをぼくがあなたへ追い詰める未明に眠れば宝石になる
「ぼくの幻肢はあなたのところへ向かうはず濡れてゆくけど許してほしい

この歌集の中にはストレートで近い距離感の恋愛の歌もふんだんにあり、それも魅力なのだが、個人的には隠喩が光る歌に着目したい。
一首目の初句の唐突感と、読まれている景の硬質さ、二首目のドリーミーでありながらもくっきりと浮かび上がる「きたなさ」と真逆の「宝石」の呼応関係、三首目「幻肢」という存在しないものが濡れて「あなた」のところへゆく、というイマジナリー要素が強い歌にもかかわらず、会話体になっており、より幻想感が累加されている。このような歌が個人的に特に好みだ。

初谷の歌集には、詞書も多く使われており、特に「愛」を大きな柱にした『わたしの嫌いな桃源郷』では、随所に織り込まれている。この文章だけでも、詩集になってしまうのではないか……?と思ってしまうような、記憶の断片を封じ込めた美しい詞書たちだ。
もしかしたら(もしかしなくても)、初谷むいは短歌というフィールド以外でもやっていけるような才能も持ち合わせているはずなのだ。
しかし、先述したようなさらに進化を遂げた歌たちも、どんどんと生み出されている。どこまで進化していくのか。けれどもこの人が書いた詩集やエッセイがあったら読んでみたい……うーん……。
個人的に、自分にはない感覚がある人の文章をたくさん読みたいので、とりあえず、まだ読めていない『現代短歌パスポート』での新作を読んでみようかなと思う今日この頃です。

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