週刊タカギ #33
こんばんは。高城顔面です。
野球を見に来て更新を忘れていました…。
ホットドッグを待つ列で更新しています。
きょうは9/7(土)。短歌評を掲載します。
『踊れ始祖鳥』は、くろだたけしの第一歌集。くろだは、第二回「ナナロク社 あたらしい歌集選考会」で木下龍也の選を受け、この歌集が刊行された。和田ラヂヲによる、ややふてぶてしさのある始祖鳥のイラストが目を惹くが、そのポップさとは裏腹に、不穏かつシュールな歌の世界が展開されてゆく。
電話して話す相手が偽者であったとしても問題がない
どのようなメールが来ても来なくても濃さの変わらぬ寂しさでした
この町の再開発で描かれた近未来図のタッチが古い
欲張って大きく作り過ぎたから世界は自重でつぶれるプリン
一首目。電話の「相手が偽者であったとしても問題がない」ということは、電話先が友人や家族などの親しい相手ではなく、関係性の薄い相手(コールセンターでの仕事など)を想起させられる。「偽者であったとしても問題がない」とスッパリ切り捨てるところが、姿勢が明確であり、よい。
二首目、パソコンや携帯電話を持っていれば、多かれ少なかれ、何らかのメールが届く。しかし、どんな状態であっても、主体が持つ「寂しさ」の濃度は変わらない。ほんとうは、メールひとつ、もしかしたら電話でも埋められないほどの、根源的な寂しさなのではないでろうか、という想像がはたらいてしまう。
三首目。再開発の計画というのは、現地の人口の推移や事業費などの問題で、大幅に予定が変わることがある。わたしも、地元の昔(90年代ごろ)の再開発計画の画像を見たことがあるのだが、(港町なので)ハーバーや海底トンネルの整備、ショッピングモールの建設など、現在、人口が8万8千人ほどの街としては、過大すぎるほどの整備計画をしていた。そして、そのタッチはどう考えても「昔」を感じる、夢物語すぎるタッチだった。(結局何ひとつかなわないまま、その事業は白紙となった。)この歌の中の「近未来図のタッチ」も、企画をドドーンと大風呂敷を広げて掲げたはいいものの、さまざまな事情で実現が難しくなり、結局は看板だけほっぽり出しているのだろうなあ、と想像が難くない。
四首目、世界の構築というものを、巨大プリンで喩えた歌を見たことがない。たしかに、巨大に造りすぎた強度のないものは、自重によって決壊してゆく。世界の全体像を完全に把握している人間というのは、この世には(おそらく)いない。各自の視点で世界を見つめていて、世界のどこかで起きている軋みに気づかず、いつの間にかどこかが崩れ始めてゆく。そうした世界に対する、皮肉めいたものを感じずにはいられない歌だ。
くろだの歌には、さらにディストピア感が強いものも見られる。
壊れたら壊れたままにしておいて生まれ変わりは別人だから
ひき肉を牛になるまで巻き戻す科学はなくて今日も戦争
非常時に避難所になる公園に鳩がいるのは備蓄ではない
(思索せよ)僕たちの手にある未来(戦争はAIが続ける)
一首目。「おまえのかわりはいくらでもいるんだぞ」という言葉を聞いたことがあるが、現実の中で「壊れ」てしまった人をそのままにしておくと、「生まれ変わりは別人」になってしまう。たった一首だけなのに空恐ろしい世界が垣間見える。
二首目。以前、偶然見た大喜利で「コンビーフを牛に戻す小学生」というのが登場して、笑いながら見ていたことががあるのだが、「ひき肉」と「今日も戦争」という語からは、後戻りのできなさというのををひしひしと感じてしまう。発想は奇想に近いのだが、「戦争」という語彙にここまで引きずり込まれるか…となった一首。
三首目。野生の鳩が、非常時に避難所になる公園にいる。そこまでだったら普通なのだが、その鳩を「備蓄」ではないと、わざわざ思う。相当に救いが見えない状態も視野に入ってしまう。そんな眼がある。
四首目、ストレートに「人間」「AI」「戦争」の関係性を考えさせられてしまう歌。戦争を捨て、(今のところ)人間にしかできない「思索」するということ、そして、AIが代理戦争のように(もともとの戦争のきっかけなんか関係なく)戦争を続けていくという、あまり想像したくない未来像。AIのある種の危険性なども、なんとなく耳にしてはいるのだが、こうもストレートに歌にされてしまうと、畏怖という感情が、そこはかとなく湧いてくる。
さて、この歌集の中では、くろだは特段あとがきなどを残していない。巻頭に、
というメッセージを載せているだけで、極めて作者像が薄い、という印象がある。第一歌集にて、緻密に世界の息苦しさを著した、くろだたけしという歌人が、今後どのように世界を見つめてゆくのか、はたまた、歌に対するアプローチが変化してゆくのか、今はもう少し眺めて待ってみたいと思う。
次回は9/13(金)更新予定。短歌を掲載します。
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