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北海道を世界の金融センターに!

世界の金融センターといえば、大英帝国の歴史の上に培われたロンドンであり、その大英帝国に代わり冷戦後に世界で唯一の超大国となったアメリカの経済首都であるニューヨークです。それらに日本の中でも数%の経済力しか持たない北海道が割って入っていくというのは、夢物語でしょうか。私は決してそうは思いません。夢を現実にする者は夢を追い続けるものだけです。ここまで述べてきた北海道の食、観光、ソフト・パワーの展開も一つの夢につながっているのです。

さて、ニューヨークやロンドンが世界の金融センターであることは誰もが理解するところですが、実際の世界の金融センターはどのような序列になっているのでしょうか。イギリスのシンクタンク・Z/Yグループはさまざまな指標から世界の都市をランクわけした「世界金融センターランキング」を発表しています。これの2017年版「GFCI21」によれば1位はロンドン(782ポイント)、2位はニューヨーク(780ポイント)です。ロンドンがニューヨークを抑えて首位であることに大英帝国の歴史と伝統の重さを感じます。続いてランキングを見ていくと、3位シンガポール(760ポイント)、4位香港(755ポイント)、5位東京(740ポイント)、6位サンフランシスコ(724ポイント)、7位シカゴ(723ポイント)、8位シドニー(721ポイント)、9位ボストン(720ポイント)、10位トロント(719ポイント)となっています。東京よりもシンガポールや香港が上位なのです(「TheGlobalFinancialCentresIndex21」FINANCIAL
CENTREFUTURES)。

このランキングを見てみると、金融センターは地域の経済力に依拠した都市と、情報が集まるゲートウェイにある都市の2種類に分けることができるように思います。さすがに上位に立つ都市は両方を兼ね備えていますが、シンガポールや香港は小さな都市国家(地域)であり、絶対値としての経済力はそれほど高くありません。ゲートウェイ型の金融センターということができるでしょう。北海道、その道都である札幌が、これからの50年でニューヨークやロンドンに匹敵する都市になることは現実的ではないとしても、ゲートウェイ型の金融センター、すなわちシンガポールになることは決して夢物語ではないと思います。

シンガポールの歴史をひもときながら、北海道が世界の金融センターになる可能性を探ってみましょう。

金融センター・シンガポールに学ぶ

シンガポールは、国土面積約720平方km、東京23区と同程度の都市国家です。人口は北海道とほぼ等しい561万人で、2017年の名目GDPは3346億4300万ドルです。1人当たりGDPでは5万9627ドル(外務省「シンガポール共和国」)となり、世界8位で、419万円の日本(同
24位)を大きく上回ります。

西洋とアジアを結ぶ中継基地として知られ、シンガポール港のコンテナ貨物の取扱量は2017年で33670千ETUと、上海港に次いで世界2位(「海事レポート2018」国土交通省)ですが、2005年から201
0年までは世界1位となっていました。空路でも世界のハブとなっており、1981年に開港したチャンギ国際空港は世界60カ国220都市・地域と結び、2012年には5100万人が利用しており、世界有数の国際空港となっています。こうした地の利を活かすべく、現在7000社もの国際企業が拠点を置き、アジアにおける貿易と金融の一大センターとなっています。製造業も盛んでエレクトロニクス製品、バイオ医薬品、精密機械といったハイテク製品が作られ、2000年に完成したジュロン島の石油化学工業基地には約100社の石油化学関連産業が集積し、ヒューストン、ロッテルダムに次ぐ世界3位の石油工業基地となっています(「シンガポールからアジアへ」シンガポールビジネス連盟)。

今や世界の経済センターに成長したシンガポールですが、1965年の独立からわずか50年余りの歴史しかありません。しかも国の始まりは、経済力を背景に輝かしい独立を勝ち取ったという晴れがましいものではなく、むしろ母国から見捨てられた、といった方が正確でしょう。

シンガポールを拓いたのは大英帝国時代のイギリスでした。1819年にイギリス東インド会社は当時マレー半島を治めていたジョホール王国から言葉巧みにシンガポールを譲り受け、植民地として港を築きます。その後はイギリスのアジア進出の拠点として発展します。第二次世界大戦によって一時日本の占領下となりましたが、戦後再びイギリス領となりました。その後、第三世界の独立運動の高まりから1963年にシンガポールを含むマレーシアが独立します。ところがマレー人優遇を進める中央政府と華僑が中心だったシンガポールとの対立が深まり、1965年にマレーシアから追い出されてしまうのです。

シンガポールは面積の狭い都市国家で、生命を維持するのに不可欠な水と食糧を完全にマレーシアに依存していたことから、国家として独立することなどまったく不可能とみられていました。そうした中、何の準備もなく突然「追放」という事態になり、国民はまさに苦渋の生活を強いられました。さらに独立直後に雇用を通してGDPの2割をもたらしていたイギリス駐留軍が撤退し、シンガポールの苦境に追い打ちをかけました。この頃のシンガポールは貧しかった東南アジアの中でも、とりわけ貧しいスラムとして知られるだけでした。1兆円を超えていた北海道開発予算が半分に減らされ、苦境を招いた北海道ですが、世界にはもっと厳しい困難からはい上がってきた国や地域があるのです。

世界最貧国に名前を連ねかねないほどの苦境の中で一人の指導者が現れ、国を救います。建国の父、リー・クワンユー首相です。イギリスからの独立運動のリーダーとして頭角を現し、独立後最初の首相に就くと1990年まで
30年にわたり首相を務め、国づくりに尽力しました(岩崎育夫「物語シンガポールの歴史」中公新書他)。

水も食糧も国土もない、ないないづくしの中で、リー首相が最初に進めたのが「グリーン&グリーン・シティ」または「ガーデン・シティ」と呼ばれる有名な政策です。確たる資源も産業もないシンガポールが経済的に自立していくためには欧州とアジアを結ぶ地の利を最大限に活かすほかありません。海外資本に呼びかけて投資を促し、ビジネスを展開してもらうことで雇用と関連産業への波及を狙いました。とはいえ呼びかけたからといって、すぐに外資進出が増えるわけでもありません。そこで、リー首相はシンガポールという都市の魅力を最大限に高めることで外国投資家の気を引こうとしたのです。しかし、歴史的な都市景観があるわけでも、世界的な観光資源があるわけでもありませんから、シンガポールという都市自身を魅力的に磨くほかありません。ガムを道端に吐き捨てただけで逮捕される。かつて刑事罰を含むシンガポールの厳しい環境政策を日本のマスコミは面白おかしく取り上げましたが、街中の景観維持はシンガポールにとっては国運をかけた取り組みだったのです。

環境美化の取り組みと並行して、1971年にジュロン・バードパーク、72
年にセントーサ島開発、73年にシンガポール動物園と矢継ぎ早にリゾート施設の整備を進めます。チャイナタウン、リトル・インディアという伝統的街区も再開発し、観光地としての整備を進めました。しかし、これだけでは観光客を呼び込む魅力に欠けています。このことを自覚していたシンガポールは、チャンギ国際空港とシンガポール港という二つの「港」の拡張に国運をかけて取り組み、周辺に免税店が140並ぶショッピングストリートを整備しました。すなわちアジアの観光ハブとして、各国の観光地へ移動する拠点としての開発に取り組んだのです。こうしたハードウェアの整備と共に「ガーデン・シティ」として進めてきたアメニティづくりが功を奏し、1964年にはわずか9万1000人にすぎなかった来訪者数が、2000年には700万人にまで増加しました(「シンガポールの政策」
(財)自治体国際化協会他