<命生む海への感謝と愛から>
<命生む海への感謝と愛から>
まずは僕と海の関係から見直しだな。
僕たち生物は古代、海から陸に上がってきた。
そして、今も、陸から流れ込んだ様々なものを抱き込んだ海の水を結晶化させた塩を摂らなければ生きていけない体になっている。
血液は薄めた海水のようだし、母の羊水も薄めた海水のようだ。
血液も羊水も、今より塩分濃度が薄かった古代海水と似ている。
まるで体の中に海があるようだ。
血潮。
・・・
潮を読む。
潮を感じる。
自分の一部に海がある。
海の一部として自分がある。
地球と自分を分かつことはできない。
海の水がいかに汚いか、いかに汚しているか、という話と同じかそれ以上に大切な話として、海をきれいにするために何ができるかという話があると思う。
豊かなミネラルバランス、微生物たちにとっての幸せな環境。
そのためにできること。
どんな石鹸を使うか。
洗剤やシャンプーは?
どんなものを使って、どんなものを、どのように廃棄するか。
自分たちの糞便のクオリティは?
それらを生み出す腸内環境は?
それらはすべて、海の今こことつながっている。
私たちは地球に寄生する表皮常在菌のように、地球の体液のような海のクオリティに寄与している。
植林、植樹、間伐、庭の草刈り、それらすべてが、海のこれからにつながる。
私たちを生み出した海。
母への恩返しのように、今こそ、海への愛を、行動に。
日々の祈りに。
感謝の祈りと共に。
そして僕は隣人を大事にしたい、と思った。
海のことと隣人のことを思った。
悲しい、頭にくる、混乱している、無力感に苛まれている。
そういう混乱、混沌はあって当然だと思う。
お互いの混沌に寄り添いあいたい。
答を一つにしたり、やることを一つに絞ったり、やるかやらないかを問うたり、動けているとか動けていないとか、発信できてるとかできていないとか。
二項対立と、比較のしすぎは、似ている。
混沌と混乱をそのまま受け止めることは、まるで子供を抱きしめるようなものだと思う。
俺たちせいぜい数十年しか生きていない子供。
と思う。
情けない気持ちになって上等。
あほらしい気持ちが同時にわいて上等。
じゃあ、と言った時に、僕は全漁連宛とか、抗議の声を上げ続けている政治家さん宛に感謝の手紙を書こうと思う。
感謝だけでなく、自分も引き続きこの件に向き合い続けていく、という「仲間のひとり、隣人のひとりでありたい」という声を現実的に届けるということをしていきたいと思う。
僕たちはひとりじゃない、ということを、表現していきたいね。
ひじき、自分で採ってみたら、岩場に生える様は、髪の毛のようだったよ。
そりゃあ食べたら髪の毛つやつやになるよなーと思った。
海を知ること。
海に足を運ぶこと。
海と自分のつながりを実感すること。
そういう、海に四方を囲まれた島に住む上でのナチュラルな感覚を、混沌とする状況の中でも、育んでいきたいと思う。
お読みいただきどうもありがとうございます。