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「話を流されること」の思わぬ効用

人によって、人間関係は様々で、何を良しとするか?の価値感もそれぞれに違うから、正解はどこにもないけれど。

今日、5年ぶりくらいに久しぶりにメッセージがきた友人とのやりとりを通して感じたことがあったので忘れないよう、備忘録として残しておきたい。

それは、自分がわりと真剣に考えていることや、昨今起こった大事な出来事をそのままぶつけた時、適当にスルーされるということ!笑

そしてそれは、メッセージをやりとりする相手が親しい間柄というか、気を遣わずにありのままの自分を出せる相手であればあるほど、その傾向が強いなぁと感じた。(私の友人関係の場合)

今日メッセージをやりとりした相手もまさにそんな感じの職場の先輩。

5年ぶりくらいのやり取りで、当時はくだらない話ばかりしてさんざん笑い転げて毎日を過ごしていた相手なので、前置きなくいきなり会話がスタート。

長い時の空白を一切感じさせないような、ラリーのように途切れなく、リズミカルなやり取りがひたすら続いた。

不思議なくらい、昨日の陸続きのような感覚があって自分でも驚く。

時間ってなんだろうと。

とはいえ、5年も経過しているのでそれなりに色々あり、試しに近況報告で今年に入ってからのわりと重めな出来事を伝えてみたのだけれど、ふつうにスルーされた😂

「それ、流すかー」と一瞬驚いたけれど、こういうの嫌いじゃない。

単に興味がない話題なのか、意図的に避けたいのか、会話の相手の思惑は別にして、こうやって流してくれることで、むしろ気持ちがフッと楽になることがある。

こういう時、多くの人は、共感するような言葉を求めるのかもしれないけれど、重めの話題になった時に適当に流してもらうことによって、それが一種の救いになることもあるんだなと感じた。

もちろん深い悲しみに打ちひしがれている時、自分ひとりで抱え込むのは苦しいことで、そんな時はやっぱり「自分の心の声に寄り添って。しっかりと受け止めてほしい」、一言ものがさずに親身になって共感してほしいと思うことも、ごくまれにある。

でも、人の話をじっくり聴くことばかりが心に良い作用をもたらすわけではなく、流すことの効用も同様にあるのだと、この一連の出来事で実感した。


今日メッセージをやりとりした先輩が、意図的に話を流したかどうかはわからない。

ただ、自分にとって結構重めな出来事を何事もなかったようにサラリと受け流してくれることは、優しさや思いやりの一種なんじゃないかと感じた。

わかりやすい優しさばかりが、優しさではないのだなと。

そして、傾聴の価値と同じくらい、「流す」ことの効用もあると実感した。


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