文章が下手になった/友人の記事に完敗宣言/平凡な人間にできる事は、ボンクラを貫き通す事

・久々に、noteなどである程度の長文を書いて思ったのは、こんなに文章が下手になってしまったのか、、、という事だ。
元々、このnoteを始めたきっかけは、もうtwitterでは自分の考えてることを文章に落とし込むのに限界を感じてたからだ。140字で言いたい事をまとめるのも無理だし、twitterに年がら年中貼り付いて事細かに何かを呟き続けるのも、無理なのだった。twitterに特化し、バズってる文章やユーモアを自分は憎む。なぜなら、オラは、そこに挫折したのだから、、、

・んで、自分は、長文を書くことは全然苦にならないのだけど、今度はあまりにも構成力がなくて、ダラダラと長い、何の起伏もない文章を書き殴ってしまう悪癖がある。推敲もせずにドバドバと筆が走るのに任せているからだ。読みにくいし、とっつきにくい。
以前、7年くらい前までやってたブログも、1記事の文量が長くて、ポピュラリティーのない事ばかり書いてて、その上暑苦しいアジテーションに溢れていて、友人からは大変不評でした。当然、web上でのレスポンスも特になし。
アーメン。

・しかしそれでも、(自分で言うのも何だが)読ませるだけのナニカ、サムシングはあった様に思う。読み返してみて思った。
それは、書いている上で読者を一応意識していたからだし、何よりも熱意と気合があってそこが目立ってたからだ。
「熱意と気合」ってのは嫌いな言葉だけど、しかし、この二つは魔性の言葉で、事、創作においては、人を振り向かせるパワーに直結している。
昔の自分の文章を読み返してみて、ガチャガチャした文章で、書いてる内容は、クレしん映画の事や数年前に発売したゲームの感想だったりして、見苦しい事山の如しなんだが、不思議と若気の至りゆえの気恥ずかしさはない。それどころか、「ああ、文章頑張ってるなー」という謎の感慨に浸っちゃう。もはや、過去の自分にエールを送りたくなってしまった。不思議。ねじれた自己愛。
タイムマシンで、その頃の自分に会ったら、メガホンで応援してあげたい。
「お前はこれからの人生でも何も成し遂げていないままだが、お前の文章、俺は好きだぜ!」とな!!

今の自分は、もう、何も、ないのだから。熱意も文章力も発想力も。。。
ここは墓場だ。


・何で、こんな繰り言を書いてるかとゆーと、最近、友達がnoteに挙げた記事を読んで、衝撃と焦りを覚えたからだ。
すげ〜面白かったんだよ。内容が良いのはもちろん、文章力もあって、長文なのにグイグイ読めてしまう。仕事中に何となく読んでみたら、スクロールが止まらなくなるくらいに。嫉妬を覚えるぜ。(その人は、友達と言うには微妙な距離感で、しかも僕よりも一回り以上年齢が離れてるので、ますます友達なのか・・・?と疑問になる人なんだけど、私は心の中でマイメンだと勝手に思っている。今度会った時、「マイメンですか?」と聞いてみようかな。)

・んで、その人の記事はほぼ自分の人生の述懐なんだけど、いちいちトピックが刺激的で、興味を掻き立てるものばかりだ。
プライベートすぎる内容だからここでの詳述は控えるが(後、悔しいから)、よくもまあ、自死を選ばなかったなあ〜というくらいに悲惨。
しかし、それでいて、乾いた感性に貫かれた文体なので、内容ほど心がザワザワしないのがまた心地よかった。
少なくとも、自分には逆立ちどころか、何回か生まれ直しても書けない文章なのは、明らかだった。
完敗だ!!!!!


・自分は37になるこの年まで、何とかこの残酷な世界を生き延びて来たって自負があるけど、幸運でもあったなと思うし、結果的には平凡でもあるなーとも思う。特にド派手な借金やトラブルに巻き込まれてないし、幸運にも心療内科や消費者金融の世話になった事もない。学歴も職歴も低空ではあるが、それなりに、ある。フツーっちゃ、フツーだ。

・もしかしたら、昔はそうではなかったかも、しれない。
ボンクラ故に、10代・20代の大半は鬱屈していた。社会性を欠いた性格故、学校や職場では浮いた存在である事が多かった。長らく童貞でもあったので、異性との距離感がめちゃくちゃだった(これは今も若干そう)。自分本位で生き、他人に対する思いやりは全くなかった(これは今でも大分そう)。そう言った欠点から派生するヒドイ出来事も一通り経験したが、誰にも同情されなかった。それ故に鬱屈や怒りも多かった。
しかし、今じゃどうだろうか。
特に、生活に不満はなく、何なら今のコロナ禍の自粛生活は天国だと思ってる。これ以上何を望むのだろうか?というくらいに恵まれてる。これ以上何が欲しいのだろうか?僕は。

・・・名声だな。

もうちょい具体的に言うと、自分の作品を作って、誰かに好きになってもらって、誰かに影響を与える人間になりたい、と言う願望だ。
それが、MEISEI、名声だ。私はそう言う意味で尊敬される人間になりたい。

・作品を作ると言うジャンルで名声を得るには、手っ取り早いのは不幸になる事だ。不幸な体験、不遇な状況、悲しみや怒りにまみれた感情。それを上手いこと作品に載せれれば、とても刺激的だし、人からの共感も同情も得やすい。
しかし、私には、今、その負の感情がない。生来から気楽な性格だったのだが、ここんとこノーストレスで来ているので、それに拍車がかかって、今では毎日笑って暮らしてる。不幸なんて何もないし、平々凡々に日々を過ごしている。
創作者としてこれでイイのか!?と言う疑問と、この天国みたいな状況がいつまでも続けばイイなあ〜と言う淡い期待に脳が麻痺する、と言う心の往還がこの1ヶ月半の間に何度も起こった。(ここでは、社会や政治への不満や、今後の自己の行く末の心配などは勘定に入れていない。)

これでイイのか!?→これでイイのだ。

今の所の結論はそれしかない。バカボンのパパになるとは思わなかったが。

いくら足掻いたところで、自分のボンクラ性は揺るがないし、それでしか勝負できないって事を、この37年間、いやというほど実感してきた。
かつて、みうらじゅんは自伝マンガの中で、”不幸にも、不幸な事がなかったんだ”と、自分の平凡さを嘆いていた。若い時分の自分は、その言葉に感銘を受けたが、いよいよ、その言葉に凄みと迫真性が増してきた。

今は、社会情勢も不安だし、未来に関しても、これから社会も生活も何もかもが悪くなっていく実感しかない。いつ、自分の足元が崩れ落ちていくのか、マジで分からない。
例えば、友達は、コロナ禍で収入がなくなり、田舎に引っ込む決心をしたらしい。ショックであったが、「仕方がない」とも思った。自分も明日にはそうなっていてもおかしくないのだから。

そうでなくても、いつ借金を背負うか分からないし、心療内科の世話になるかも分からない。
それに関しての不幸自慢をいつ始めるやも知れない。

だからこそ、今の自分のボンクラな生き様をここに記していくのに、意味があるのだ。無くしてしまわない内に、記録として、ここに残しておくのだ。自分は不幸な物事に対抗するのだ。不幸な人のトピックに勝つためには、
10倍の分量のボンクラで戦うしかないのだ。
そんな鈍い決心をしたのだった。


・次回はもっと、本当に意味がない事に頭を使おうと思います。
 深夜3時の勢いでここまで書き進めてしまった事を、後悔します。


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