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新刊掲載対談全文公開 高田マル×森脇透青「はじめの話、はじまりの話」

2024年3月末発売の絵画検討社の新刊、高田マル著『祈りの言葉は向かって行く線、今日も同じかたちをしている朝の挨拶』に掲載されている高田マルと森脇透青(批評、哲学研究)の対談を全文公開します。

本書は画家である高田マルが運営する絵画検討社から発売される3冊目の本であり、高田の2つの個展で絵が描かれ消えていく様を追った「出来事としての絵画」のドキュメント集です。絵を描き、見せ、見られ、消えていく姿が140ページにわたって写真でおさめられています。
展示会場で行われた森脇さんとの対談はお互いの関心の根源を語り合いつつ、絵が描かれ見られるなかでなにが起きているのか、われわれが表現をしようとするときに何が起こっているのか探る対話となっていきました。

書籍に掲載されている対談に、本編の展示写真を多数加えての公開となります。書籍は3月末からの全国の書店にて販売が開始しますが、NADiff Onlineから先行予約受付しております。(→NADiff Onlineでは引き続きサイン本を販売中

東京・恵比寿のNADiff A/P/A/R/Tで開催される刊行記念フェアと、同時開催の個展「この花、ダリア、ダリア、ダリア、」については下記ページをご覧ください。
刊行記念フェア詳細→
NADiff website
個展詳細→
NADiff website(→ともに終了しました)

高田マル×森脇透青 対談「はじめの話、はじまりの話」

2023年7月9日、高田マル個展「向かっていく線、朝の挨拶」の会場にて

高田マル個展「向かっていく線、朝の挨拶」1階会場風景(JITSUZAISEI、大阪)

高田マル( 以下、高田) 森脇さんは哲学研究者であり批評家で、哲学に関してはジャック・デリダ研究がご専門です。わたしとは三ヶ月前に知り合ったばかりなのですが、初めてお会いしたときにご自身の研究について説明してくださって、その話がわたしが絵を描いて展示することのおおもとの関心と近いと感じたため今回対談相手としてお呼びしました。なのでそのあたりの話からしたいところなのですが、今日はいろんな方がいらっしゃると思うので、最初に今回の展示とそれに関する過去の作品を手短にご紹介しようかなと思います。

森脇透青( 以下、森脇) そうですね。

高田 今回の「向かっていく線、朝の挨拶」では、ギャラリーの 1 階で壁に直接絵を描いていて、3階ではビニールシートを使用した作品を展示をしています。1 階でも3階でもそれぞれ日記帳の絵をプロジェクションして何度もそのかたちをなぞって描いています。1 階と3階では使用している日記帳の絵がちがって、3階の絵は去年東京で行った個展「祈りの言葉は今日も同じかたちをしている」のときに使用したものと一緒なのでタイトルも同じです。1 階の日記帳の絵は今回初めて使用しました。プロジェクターで映し出しているので大きくも描けるし小さくも描ける。高いところは足場を作ったり、脚立に登ったりして描いています。使っているのは太い鉛筆の芯のようなものです。描いたあとにさらになすりつけて線を濃くしているので、ひとつの絵を繰り返しなぞって描いていることになります。

1階の展示風景
3階の展示風景
3階の展示風景

なんでこういう描き方をしているのかというと、わたしのなかで大きな欲望がふたつあるからなんです。ひとつは単純に絵を描きたい、できるだけ素朴に絵を描きたい、ということ。あらゆるしがらみから離れて、わたしの人生の時間の一部としてただ絵を描きたいという気持ちがあります。ふたつめは、この世に絵が存在するってどういうことなのか、絵を描くってどういう行為なのか考えたい、ということ。壁の絵の描き方でいうと、日記帳に絵を描くときひとつめの欲望が満たされている。そして、それを何度も描いて、こうして人に見せるなかで絵や絵を描く人、絵を見るひとのなにかが変わっていく出来事を起こすことでふたつめの欲望が満たされています。1 階と3階で素材はちがいますが、基本的にここは一緒です。私的な絵が公的な場に置かれたとき、物としても存在としても変化せざるを得ないということを「絵画」という枠組みで考えたい、見せたいというのがあります。

これまで直接壁に描く以外にもさまざまな形態の絵画作品を作りつつ、「絵画検討会」という企画もやってきたのですが……これについては長くなるので省きます。その絵画検討会の延長で絵画検討社という一人出版社をやっています。1 冊目の本を出版しようとしたとき、コロナ禍が始まりました。2020年の春に予定していた出版記念展を延期にせざるをえなくなって、開催を待つあいだにこの《許す人、許される人》という作品を作りました。

高田マル《許す人、許される人》 紙、カレンダー、鉛筆、釘 2020年

これは自画像の上に絵を描いた日めくりカレンダーをかけています。鉛筆で描いた日記的な絵を作品として見せたのはこれが最初です。出版記念展の延期が決まった 4月1日から描き始めました。おもて面には気晴らしに買ってきて花瓶に生けていた切り花が変化していく様子を、裏面には屋外に出て見つけた若葉をそれぞれその日のカレンダーのページに描いています。春でしたからね。ちょうど若葉が出てくる季節で。おもて面の花はどんどん枯れていって、裏面はどんどん新しくなっていく構造になっています。
コロナ禍のとき、わたしは会える人がひとりもいなくなってしまって、本当に嫌だなと。なにもやれることがなくて会える人もいない日々が続いていて本当に生きがいがゼロだった。でも、もし自分が画家であるなら、絵を描くことが人生としてあるなら、絵を描けばいいじゃないかと思ってこれを描きはじめました。鬱々としている自分を無理矢理外に出す手段として外の若葉を描くという設定をして、これを一日一枚描いたら自分は今日という日をよく過ごしたんだと思おう!と思って。それを会期が始まるまで続けた。最後は花瓶の花がカラカラに枯れて種が採れました。そういう作品です。
このとき初めて「自分のための絵」を描いたなと思いました。そして、その私的な絵を作品として展示した。たまたまカレンダーを支持体にしたわけなんですけど、そこから引き続き考えて、こういう私的な絵をできるだけそのまま公的な場に置いて見せるにはどうすればいいのか試行錯誤した結果、今回のプロジェクションして描くやりかたにたどり着きました。

森脇 なるほど。まずは素朴な感想みたいなことから話していってもいいですか?

高田 はい、もちろん。

森脇 僕がこのギャラリーに来るのは今日が3回目です。1 回目はドローイング……壁に絵を描く公開制作日に来ました。そのとき実際にプロジェクターでこの絵を投影してなぞっているのを見ました。2回目は完成した展示を見に来たとき。そのときに3階を初めて見ました。それで今日、トークイベントの出演で来た。この作品について誰が見てもまず気がつくのはキャンバスに描かれていないということ。高田さんの作品は過去作にもキャンバスに描かれたものは無いし、さらに言えば作品の「境界」そのものについてもラディカルに壊してしまっている印象があります。たとえば壁に描くにしたって天井までいっちゃうとか、区切りがあったとしてもはみ出てしまっている。そういうかたちで1 個のタブローに閉鎖されないイメージを描かれてきたと思うんですよね。だからこのへんからお聞きしたいんですよ。絵画検討社という名前の出版社もやっていらっしゃるように、高田さんは一貫して「絵画」というジャンルそのものにこだわってやってこられたじゃないですか。そのときに、「絵画」といってもタブローのなかに閉鎖されていないものにこだわるのはどうしてですか?

公開制作の様子
公開制作の様子

高田 わたしは絵画をものとしてではなく出来事として捉えていて、あるとき絵が描かれたり見られたりする人間の営為として「絵画」を考えたい。なので、タブローのなかで起こっていることはその出来事の一場面みたいに感じられるんです。描かれたものがたまたま今そこにやってきてひっついているだけ、というか。だから1 個のタブローに閉鎖されないイメージを描いているのかなと思います。あと、すでに用意されている、そこに描けば「絵画」と認識されるような伝統的な支持体に私的なものを当てはめていくことに違和感がある。そういう規定されたものの上だから極まっていく技術もあるとは思うんですけど、私的なものが公的になる過程としてあまりに唐突すぎる気がして。

森脇 なるほど。高田さんの作品は「私的」なものとして提出されているわけですが、しかしいわゆる個人的な感情とか体験を爆発的に表出したようなタイプのものではないわけですよね。3階の作品にしても1 階の作品にしても、印象的なのは同じ図柄をひたすらに繰り返すという一種の複製の手法であって、これは一般には一回性の「表出」とは対極にあるように見えるのですが、しかしいずれにせよ、そうした技法を通じて高田さんは「私的なもの」と「公的なもの」を作品にしてこられたわけです。
僕がこうした「体験」と「複製」について思いつく具体例は、「カレンダー」です。この具体例はジャック・デリダがツェランについて書いた文章に登場するのですが、たとえば今日…… 7月9日は来年も来る。今日、トークイベントがあって我々が話しており、観客の皆さんがいらっしゃるという一回性の出来事があるわけだけど、「7月9日」という日付自体は来年も来るし去年もあったわけじゃないですか。今日というかけがえのない一回性の体験のただなかにも、このような反復性は否応なく刻まれている。こうしたある種の反復の感覚というか、「同じことが繰り返し来てしまう」という感覚と、同じ図像を繰り返し描くという高田さんの作品にはなにか通底するものがあるかもしれない。

高田 反復については確かにカレンダーの作品にもあって、そこから始まっているのかなと思います。出版記念展示が延期しているあいだ、今日が毎日くるのにうんざりしていたんですよ。同じような日がやってくるのが本当に嫌で。でもそのときに、自分が存在することでただ日々が積み重なっていくんだなという気づきもあった。その繰り返されていくという退屈さを肯定しないといけない、という課題が出てきたわけです。反復はその退屈さを肯定する方法であるとも言えます。反復することはすごい退屈でもあるんですけど人生の過ごし方としてあって、ということはそれによってなにかが起こっているはずで。

森脇  1 階の壁の絵にも「2018 04 23(2018 年4月23日)」って日付が刻まれている。しかし「2018年4月23日」の絵がいっぱいあっちゃうわけですよね。その日の唯一さを強調するよりもあるいはその唯一さそのものを何度も描き直し増殖させるということで作品を作っているのがおもしろいと思います。ところで、公開制作日のときに高田さんと少しお話しして、これはある一日に実際起こったことを描いた絵がもとになっていると聞きました。これ、犬ですか?

高田 これは机の上にいろいろ置いてある状態を描いたもので、それを90度回転して縦にしています。あの動物は……ガラスの置物なんですけど、なんの動物だったかな。

森脇 これは机の上の風景だったのか……。公開制作日にお話ししたときに印象的だったのが、高田さんは「描けば描くほどその日になにがあったのか忘れていく」とおっしゃっていたことです。それはとてもおもしろい証言だと思っていて、一般的に「記憶」というものは自分のなかで反復し想起していくとその日実際になにがあったのかとは別としてどんどん自分のなかで印象が強くなっていくものだと思うんです。トラウマとかもそうですが。

高田 そういうものらしいですよね。

森脇 だから描けば描くほど忘れていっちゃうというのは逆説的ですごくおもしろい。むしろその日の記憶から具体性が遊離していくというか、反復されるなかで「その日」の唯一性が抽象化され、どんどんただの「形象」になっていく。ここには単なる記憶という以上に「描く」、支持体に「書き込む」という行為の性質が表れていると思うんですよ。
実際、我々は今これが机の上の風景だと聞いたからそのオリジナルを確定し復元できる気がするけれど、たんにこの絵だけを見た人はなんの絵かわからないだろうし、たとえばこの絵が90度傾いていることに気づかない人も多くいると思う。ここで、絵は「個人的なもの」と言いつつもそこから逸脱して出ていってしまうわけじゃないですか。それがおもしろいと思うんですよね。3階の絵もそうだと思うんですけど。

高田 もとの絵は手のひらくらいの大きさなので、壁に描くときにはものすごく拡大してプロジェクションして描いています。だから描くときには目の前のほんの少しの範囲しかわたしには見えていない。全体のかたちは把握できないので、本当に線を追い続ける行為になっていきます。だんだん模様をなぞり続けるというか、写経みたいに文字のかたちをなぞるみたいな。だから描くほどに忘れていくというか、かたちだけが強まっていって内容がわたしから少しずつ離れていく、という感じです。

森脇 その日の出来事から切り離されて純粋な形象になっていってしまうわけですね。だけど、ここでもうひとつ注目したいのはそれが横に並んでいることです。たとえばどんどん上書きされて最新のものだけが残るのではなく、それぞれのなぞり描きが横に並列されていく。これについては積み重なったレイヤーが横にばらされているようなイメージを持ちました。だから、単にプロジェクションしてなぞっているとしても、そこには個々のドローイングごとの微妙な差異を見てとることができる。
ただ、ここにも逆説的な含みがあって、3階の作品は《祈りの言葉は今日も同じかたちをしている》と題されているわけですよ。ここで考えさせられるのは「同じかたち」とは一体どういう事態なのかということです。「同じかたち」など厳密に言えば無い、むしろなにかを「同じ」だということ自体がこういう「なぞり描き」の、ずっとちょっとずつずれていく運動から考えられるべきなんじゃないか。僕たちが「同じ」、「同一性(アイデンティティ)」みたいな言葉で言っていること自体が、こういうふうにちょっとずつずれていってしまうことなんだろうと思います。
こんなふうに先に自分の考えを述べちゃったんですが、高田さんはどうしてここで「同じかたちをしている」っていう題を採用されたんでしょうか。

高田 まず、同じかたちを繰り返し描くことにしたのは、それによって「ただ描く」ことができるなと思ったからです。ちがうかたちを毎日模索して描いていると、なにを描くのかとか、どう描くのかとかが重要課題になってくると思うんですけど、決まりきったかたちをなぞるときには、ただ描く行為だけが残ります。質問に答えると、この絵を描くときに毎回同じかたちに向き合っているという意味で「同じかたちをしている」としました。それが、毎日同じかたち、同じ言葉で繰り返される祈りの言葉と重なったので「祈りの言葉は今日も同じかたちをしている」としました。

祈りの言葉も挨拶も、同じかたち、つまり同じ言葉で発せられ繰り返されるとき、それによって毎日ちがう意味が伝達されるわけではない。意味は伝達されない。ということは、言葉を口にする行為自体がその人の人生の時間となってその人の世界を構成しているということが重要になってくるのではないかと思って。挨拶や祈りの言葉をそういうものだと考えたとき、同じかたちの像をなぞりつづける行為と重なりました。

森脇 なるほど。一番最初の絵はある種の風景をもとにしていて……基本的に多くの作品が風景画のような、それを抽象化するかたちで描かれていますよね?

高田 わたしの目の前にあったもの、という感じですね。

森脇 それを一回描いてしまったらあとはそれを無心になぞるというか、そういう行為をやりたいっていう。

高田 日記帳の絵を描くときには自分と世界の記録というか、目がひかれたもの、目が合ったものを描く、というシンプルな行為。目の前のものと一緒に時間を過ごすための方法で、描いている時間=わたしの人生の時間になる。で、展示のかたちにするときには、こういう絵を人に見せるとはどういうことなのかということが考えごとになってきます。繰り返し描いて人に見られることによって絵のかたちは同じなのに絵の存在の仕方が変わっていく。描くことで忘れるというよりかは、自分から絵が離れていく、離していく、世界に解き放っていくみたいな感じがあります。

森脇 描く行為によって手から離れていく、別離していってしまう。そういう過程をこういう場所で作品化しているということですかね。

高田 そうですね。絵を描こうとするとき、見せようとするときに起こる一連の出来事を見せている感じです。

森脇 「描く行為」を反復すると言っても、たんになぞって反復するという以上に、「展示」という見られるプロセスの公開性を意識することで、それが特別な意味を持つことになる。

高田 そうですね。森脇さんと初めてお会いしたとき、研究内容のお話で世界と主体が出合ったときになにが変わるのか、あるいは変わらないのか興味あるっておっしゃっていましたよね? それが、わたしが日記帳に絵を描いてここに至るまでに2回起こっているんです。日記帳の絵を描くときと、ここに持ってきて皆さんに見せるときの2回、変容の可能性が発生している。

森脇 僕がずっと興味があり研究や批評で追いかけているのは、なぜ単なる個人的な人生や体験がある種の公共性というか、公開性を担ってしまうのか、あるいはどうしたら担いうるのか、ということですね。

高田 それって、なにか興味をもつきっかけがあったんですか?

森脇  きっかけ?

高田 哲学研究とか批評を書くおおもとの関心がそこにあるのかなと思って。今おっしゃったように、言葉としてはまとまっていますよね。でも、結構抽象的な言葉でもあるから、逆になにか具体的に体験したことがあるのかなと思いました。『近代体操』創刊号(森脇が主宰する批評系雑誌)に掲載されている森脇さんの文章を読んでいるときも思ったんですけど。

森脇 具体的な体験か……僕は結構頭でっかちだからな……。

高田 研究をするなかで擦り出されてきた考えなんですかね?

森脇 研究というか、読んできたものの影響だと言えるかもしれないですけど、もしかしたら、東日本大震災かもしれないですね。まさかこの話をすることになるとは思っていなかったんですが、行ったんですよ、福島に。東日本大震災が起きた1 年後か2年後なんですけど、そのころ学校の生徒会に入っていたのでその活動の一環で。

高田 そのときは大阪に住んでいたんですか?

森脇    はい、大阪の高校生です。あまり話題として繋がらないかもしれませんが思い出してみます。現代文の先生がとにかく情熱的な人で、「行こう!」って言って手配して連れて行ってくれた。でもそのときはボランティアの人がたくさん来ていてやれる仕事がほとんどなくて、仕事を分配されるときも現地の人は「じゃあ、こっち並んでください、こっち行ってください」って機械的な感じで、「がんばろう福島」的な嘘っぽいヒューマニズムとはちがった事務的なやりとりがむしろ新鮮で嬉しかった。結果として現地では石拾いをひたすらやったんですよ。津波がきて畑に混じってしまった小さい小石は機械では拾えないから手で拾っていくしかない。「復興」とは実際にはそういうことなのかもしれません。
そうしてボランティアを終えたあと、現代文の先生が「君たちはこの被災地でなにを感じたのか、その体験から得た感情を話そう、書いてくれ!」と(笑)。でも、普段は文章を書くのは小手先とか口八丁でどんだけでも書けるほうなのですが、そのときは書くのに困ってしまった。じつは正直言って僕はあまりなにも思わなかったんです。もちろんバスから降りた瞬間にすごい潮の匂いがするとか、実際行かなきゃわかんないことも確かにあった。けれども、概ね「テレビで見ていたとおりだな」と思ってしまったのも事実です。当時結構準備して、情報を集めてから向かってしまったせいかもしれません。
僕がたんに冷酷だからかもしれませんが、そこで体験を通じて劇的に人生が変わったとか、ショックを受けたとか書いて、最後「真剣に考え続けなきゃいけない」とか書いてそれらしく締めるとか、そういうことをして一体なにになるのか、と思った。全部嘘になってしまう感じがするんです。当時もうTwitterがあったのでというか僕は震災きっかけで見始めたのですがそのなかでデマも含めて動き続ける情報の錯綜を前にして、僕の役割ってなにもないというか、なにを思おうとも思わずとも現実は動いていく、というような距離感だけがあった。ただ、とは言っても単にシラケてしまったわけでもなくて、そのような無力さという前提の上でなにかを書くこと、なにか発言することで世界を変えるようなことができるとすれば、それはどういうやり方で可能なのか、とは事後的に考えていたと思う。個人的な体験と公共性の関係についての関心は、こういう意味では震災の影響があったかもしれないですね。

対談の様子

高田 その話のなかでの世界と主体って、震災が起こった世界と森脇さんでしょうか?

森脇 そうです。あとは、震災を通じていろんな作品が生まれて、それを見たり読んだりしたことが政治とか公共性に興味をもつ入り口だったと思います。

高田 平和な日常においては、世界と主体のどっちが変わる確率が高いかでいうと主体のほうが変わりやすい気がします。どこかへ行ってなにかを見たりして世界と主体が新しく出合う確率が高くなると思うんですけど、震災のときは世界のほうが勝手に新しくなっちゃったという感じでしょうか? 世界がものすごい勢いで変わっていっているのに、それに接触している自分はなにも思わないことにびっくりしたというか。

森脇 そう、びっくり。ある種のストーリーを自分で今作っている感じがしますが、その状況を回復しようとしたときに、こういうなにも感じないやつがどうしたらそっちの世界に関わっていけるのか考えた気がする。

高田 世界と主体が出合ってなにかが変わって生まれたものとしての表現物だけではなくて、変われなかったパターンもあるという前提で考えているんですね。

森脇 そういう諦めみたいなものはベースとしてあるかもしれない。研究内容に即して言えば、デリダっていう哲学者は「自伝」や「自伝文学」というものに強い興味のある男なんですよ。さっきのカレンダーの話にしてもそうですが、すごく個人的な体験なのに、文章として書くとそれが公開され作品になって後世の人が読む、という構造にデリダは異常なほどに拘泥する。ここでは「もとの体験」というのはもう共有できないわけなんで、厳密な意味で「共感(エンパシー)」を持つことはできない。でも、それでも文学はなにかしらのパトス(情熱)を通じて別の体験を生んでいく。デリダはそういう構造を言葉遊びで「テレパシー」と呼んでいます(笑)。
「共感」とはちがうかたちの「パトス」を持って世界に関わるやり方、僕にとってそれが「歴史」という概念だったのかもしれない。つまりもとの作者が死んでしまってもその文章を読みうる、あるいは作品を見うる、そのことによってまたなにかが生まれる。作品を作るということは、常にわたしが死んだあともその作品が残り続ける可能性を残すことです。それは常に、作者の体験が裏切られることです。しかし僕はその裏切りにすごく想像力、創造性、クリエイションみたいなものを感じるんですよね。

高田 わたしも近いことを考えたりするんですけど、わたしはその流れのなかで個人が消えて行くことをあまりポジティブに思っていなくて。個人史が大文字の歴史のなかで消えてく、というのが昔からめちゃくちゃ嫌なんです。

森脇 以前、本にも書かれていましたよね。もともと文学部史学科で……。

高田 はい。歴史が十代の頃から好きで、なぜ今があるのか教えてくれる気がして好きだったんですけど、二十歳前後のときに印象的なことがいくつか起きて。ひとつは、わたしは大学生のときに第二次世界大戦の戦時性暴力被害者の人の裁判支援のサポートのサポートみたいな活動をしていたんです。それは、何人かのおばあちゃんと日本政府が戦っているような戦後補償の裁判だったんですけど、そこにはものすごいギャップがあった。そのおばあちゃんが毎晩PTSDで眠れないという話と、歴史の流れのなかでの国際的な政治判断が同時に起こっていて、そのギャップに頭がくらくらする。わたしが裁判支援を直接できていたわけではないんですけど、そういうのを目の当たりにしたとき個人的な出来事と大文字の歴史の乖離がすごく気になった。
あとは、原爆の日に広島の平和記念式典を見に行ったとき。平和記念式典では首相が挨拶をしたりしている一方で、その日はいたるところで市民によっていろんなイベントが行われていて、見学しに行ったんです。そこでたまたま居合わせた人が原爆でお姉さんを亡くしていて。毎年この日は平和記念式典へは行かずに姉が死んだ場所にお参りしている、というお話を聞いたときのこともずっと忘れられずにいます。

森脇 高田さんがこれまでに出された2冊の本を読むと、歴史とか理論に対する暗い気持ちが書き込まれていて……。

高田  はい(笑)。

森脇 でも、にもかかわらず、このように作品が個人的なものから離れていくってことを表現されているじゃないですか?

高田  はい。

森脇 だから高田さんが言われていることとやっていることのあいだにある種のギャップを感じるんですよ。

高田 すごく嫌だけど、しかたがないことなんだろうな、とも思っているんですよね。大文字の歴史自体を否定したいわけではなくて、そういうものを編んで残していきたいという人間の営為は否定しないんですけど、だから難しくて。大文字の歴史を編むこと自体は否定はしないんですけど、個人のことと公的なことのギャップは常にあるので目を離せずに唸り続けているみたいな。

森脇 そのギャップがもちろん否定的に働くこともある。単に大文字の〈歴史〉からすべての体験を説明するような方向には僕自身も反対で、そこには救いきれない体験の微細さというものは絶対にある。でも他方で個人的な経験、「当事者にしかわからないこと」を絶対化するのもよくないと思っているんですね。たとえば戦時中の体験にしても、たしかに当事者の体験を聞き取ることには重大な意義があるけれど、他方で残された後の世代は実際に体験した人たちがいなくなったあとにもそれを考え続けないといけない。単にそれを歴史的事実として、テストに出る用語のように生真面目にのっぺりと受け入れるということでもないし、かといって誰とも共有できない体験の具体性を絶対化するでもなく、そこで消えてしまうものを含めて歴史と個人のギャップにとどまることが必要だと思う。高田さんの作品はまさにそういうものだと僕は思っています。

高田 そうですね。さきほどポジティブに捉えていないと言ったんですけど、ポジティブに捉えうるのではないのか、捉えたいっていうのが近年考えていることなんです。そのきっかけになったのが「忘れられない絵の話」の企画を始めたことでした。一対一で、たまたま来た人と話すかたちで採取した話がほとんどなんですけど、本当に初めて会ったのに昔いじめられていた話とか結構プライベートな話をしてくださる方が多くて。始めたときは本にしようとは思っていなかったんですけど、話を聞くなかでこれは大切なことを聞いてしまったからちゃんとかたちにしようと思いました。わたしにとって他人と関わって生まれる一番ちゃんとしたかたちって本なので、本にしようと思った。

高田マル編著『忘れられない絵の話 絵画検討会2020-2021』(絵画検討社、2022年)

で、本を作る過程として、お話しの録音を文字起こしして、整理して、話してくれた人に確認をとって、その原稿を校正者の人に読んでもらって、デザイナーさんに渡して、印刷会社にデータを送ってこういう本になっていきます。その過程で、最初の感じというのはかなり失われているなと思ったんです。最初にわたしが面と向かって話したときの感じとはものすごく変わってしまうし、その変えてしまう行為を誰が一番しているのかっていうと、わたしなんですよ。
最も悩んだのは、まずだーっと全部文字起こしをした原稿を整理するとき。ただ起こすとひとりで一冊できるくらいあります。だからそのなかからいくつかのエピソードを抜粋して、さらにそのお話を……人って誰しも、文章のようには話さないじゃないですか。それを文章になるように書き直すなかで、自分がバンバンいろんなものを切り捨てなくてはならなかった。本ができあがっていくにつれ、自分がしてしまった行為をどう考えればいいんだろうと悩みました。でも、その過程を経たことでわたしだけが聞いていたことが人に伝わる活字に変わった。こういう本が生まれるなかで最初にあったものは壊れていっているけれど、でも、すこしずれながらなにかが生まれていってもいることに気がつくことができた。だから今はそういうものなのだと眺めています。

森脇 そこがすごく通底しているところだと思います。僕はこの壁の作品を初めて見たときから、記憶が描けば描くほど失われていくって高田さんが証言されたときから、すごく……、記憶を失うっていうことこそが記憶を残すっていうパラドックスがどうしても作品を作るって言うことのなかにあるんだと思ったんです。

高田 そうですね。見た人のなかでまた別の記憶も作られていきますし。自分がこの絵に託した記憶はまったく引き継がれないわけですけど、こう一個一個が文字のように連なったのを皆さんが見ることでまた別の記憶が生まれていくっていうのが、唯一の希望というか変化なのかなと思います。

森脇 まとまってしまった……(笑)。ちょうど1 時間くらい経ったのでここで終わってもいいのですが、ちょっと別のことを聞きたかったので聞いてもいいですか? 今回展示されている作品のなかで3階の石を写した作品だけ、やや性格が異なるように見えました。壁の絵と木にビニールシートを張った作品はもととなる絵があってそれを写すというか上書き的なものを作っているわけだけれども、石のほうはある種の模写というか。この3つはどういう意図で並べられているんですか?

《今日、石を描いた》木、膠、中性紙、水彩絵の具、標本針、ガラス板、標本ラベル、鉛筆 6×9×2cm 2021年

高田 石の作品は標本箱として作っています。なかの石の絵は水彩絵の具で描かれていて、外側のラベルに石を描いた日付を書いている。石って人間より長生きで、なんなら絵よりも長生きな存在ですよね。だからその姿形を残すという意味では、絵に残す意味はなにもない。
じゃあここでなにを標本して残しているのかというと、ものとしての石の絵ではなくて、この日、わたしが石と一緒にいてその絵を描いたっていう出来事を標本している。そして水彩絵の具で描かれた石の絵はそれを見ようと光を当てるたびに日に日に色あせて壊れていく。というように、ほかの作品と同様に絵が描かれて見られて壊れていく出来事を扱っているので並べています。《今日、石を描いた》というシリーズのひとつです。

森脇 なるほど。さっきこの1 階の壁の作品では2回の出来事がある、日記として描くという出来事、それを壁に描く出来事、と 2回変じているという話でしたよね。じゃあ、石を描くのはその1 回目の出来事ということですよね。

高田 そうですね。標本箱に入れることが2回目にあたるかもしれませんが。

森脇 そうするとやっぱり、ある種の出来事の残像というか、出来事の記憶を残すという記念碑的な、セレモニー的なところがありますよね。亡くなってしまった人を記念碑で祈念するという、一種の慰霊的な視線が常にあるわけですね。

高田 はい、あると思います。ここで一度会場の方に聞いてみましょうか。なにか質問や感想ある方いらっしゃいますか?

会場 A さん 描く欲望がある、というのを最初におっしゃっていましたよね。でも人って普通なぞることと描くことをすごく区別するじゃないですか。「描く」は新たなものを創造すること、「なぞる」はこれまでのものをただ反復すること。でも高田さんはなぞることで描く欲望が満たされているんですか?

高田 描く欲望が満たされるのは、日記帳に描くときですかね。なぞって描いているときも、像がどんどん生まれていく快感みたいなのはありますけど。

森脇 高田さんの特徴として、作品として出されているものがいわゆるドローイングである、ということがありますよね。ドローイングって、基本的に美術史のなかでは単なる下書きとして下に見られていて、同じ作家でも「作品集」と「ドローイング集」は分けて出されたりするわけです。でも、高田さんは「作品」と「ドローイング」に差を持たせていないんですよね。こういうふうな線そのものがもはや作品なのである、というのがひとつ強くある。それが、「なぞること」と「一回性の創造」の区別を高田さんはそもそも気にしていないということの証左なのではないでしょうか。

高田    ドローイングと呼ばれがちなものを作品として提示したい、というのはあります。最初に日記帳に描いているときと、なぞって壁に描いているときに起こっていることはそれぞれ異なるけれど、どちらも絵を描く行為としては同じ舞台上で起こっているので、どちらかが上とか下とかは考えないですね。

森脇 ドローイング的なものを作品化する現代美術ももちろんありますが、そこでは「線」のインプロビゼーションみたいなものが主張される場合が多い。高田さんの場合は、そこに一個のコードというか、同じものを反復する、なぞる、ということを導入していることで興味深いものになっていると思う。そして同時に、このなぞる行為で壁に描かれた形象の大小の差異がでてくると思うんです。それを可能にしているのはこの展示空間、建築ですよね。壁の上まで描いている。単なるホワイトキューブだったら失われるようなダイナミズムが、吹き抜けの2階部分までどんどん上にも描かれて縦に連なっているということで表現されているこの意味で、建築と一体となっているような作品でもあると思います。あと僕のほうからひとつ聞きたかったのは、この作品において「完成」ということがどこにあるのか、ということです。あとひとつ絵が少なくても多くても、「完成」と言えてしまいそうだし。「描くのをやめる」という決断がどこでなされるのか興味があります。

吹き抜け部分 撮影:高田マル

高田   正確には、完成というのは無いと思っています。今回、10日間を滞在制作期間、その翌日から展示期間とはっきり分けて開催していて、展示期間中は描き足していません(※ 後日、Aokidとのパフォーマンスで結果的に描き加えられることとなった)。けれど、それは完成したからではなくて、この空間はあくまでいっときの姿なんです。出来事の一時停止状態というか。これから描き足していってもいいし、また別の場所で同じ日記帳の絵を描いて続けていくこともできる。駆動させ続けることもできる。
でも今回、ぐるっと一周描いたときに一個一個が文字で、それが連なった文章のようになったなって思うタイミングがありました。展示として一時停止させて人に見せるならここかなと思って、描く道具を会場にそのまま残して描くのを止めました。

森脇 文章を書いていてもどこでやめるかってすごく大きな問題です。手を加えようと思えば無限に変え続けることができてしまうので。そういうときに、締め切りとか文字数の指定とか他人から要求される区切りというものがあって初めて作品として有限化できるということもある。

高田 今、区切るっておっしゃいましたけど、線を引くって区切る行為だとも言われますよね。でもこういうふうに線を描いていると、区切るとはちょっとちがうなと感じます。自分の記憶と物としての絵のあいだに線を引いて区切っている、切り離しているとも言えるんですけど……、たとえば地図は本当に領域を区切るために線が引かれるわけです。でも指さす行為として線が引かれることもあるのかなって。指を土にあてて動かすと線を引けるじゃないですか。で、なにかを指し示すときにも同じ動作をしますよね。そこにそれがある、あった、ということを指さす行為としての線を引く行為なのかなっていうのが今回描きながら考えたことのひとつです。

森脇 ある種のジェスチャーというか。

高田  はい。

会場 B さん お話に出てきた世界と主体というキーワードをおふたりがどういう意味で使っているのか気になりました。

高田 わたしとしては、この前、森脇さんが展示を見に来てくれたときに話していた言葉をそのまま使っているんですけど。

森脇 僕は高田さんが言っているだけだと思っていました(笑)。

高田 わたしの場合、世界と主体みたいなことを、公的なことと私的なことと言っていて……ただ公的なことは人間関係のなかに発生するもので、世界はもともとこの世にあるわたし以外のすべてというイメージなのですが、森脇さんは?

森脇 さっきの文脈ではパブリックなものとわたし、くらいの意味でわたし自体の経験と、テレビとかSNSに流れてくる情報、自分とは無関係に動いていそうな感じの世界、という意味で使いました。
ただ、最終的な僕自身の立場としては、そこはあんまり分けられないと考えているんですよね。わたしというのが独立して単独者として完璧にあると思っているわけではないんです。プライベート、パブリックって堅い言葉なので難しいですけど、たとえばプライベートな出来事、というものが本当に起こり得るのかということも考えちゃいますけどね。

高田 「わたしの出来事」って言い切れるのかどうか、ってことですか?

森脇 そう。出来事ってどこか中立的というか、自分で起こすわけではなくても起きちゃうことじゃないですか。意識の中身とはちがって、もともと自分の思うままにできないことだと思うんですよ。でも、作品を考える上では、初めの誰も見ていない、わたしだけが見たという私的な出来事を開いていくという意味でプライベート/パブリックっていう指標が求められるのはわかります。

高田 絵を描くという行為は、自分だけの認識を表現しうるひとつの方法だとわたしは思っています。現代においてはめずらしい、めちゃくちゃ自己中であることが許されている表現形式だと思っていて、そういうところが好きなんです。

森脇 僕はむしろ、高田さんの作品は「自己中」じゃない気がしますけどね。そういう作品を否定するわけじゃないけど、わたしの生とか、わたしが置かれた境遇とかを強く表現する作品が増えているなかで、それが世界に開かれていくプロセスについて問題化していることこそが高田さんの作品であって。
だから、正直に言えば高田さんが(主に文章や対談で)「世界とわたし」という二分法を継続して使われていることにはちょっとした違和感があります。高田さんは作品を通じて、まさにそのふたつを繋ぐようなことをやっていらっしゃるわけじゃないですか。必ずしも「歴史」のような対象を敵対視しなくても、高田さんはそのつど十分「公共性」とはなにかを問い直す作品になっているような気がします。

高田 絵は自己中なものなんだけど、人に見せたり公の場に置かれることでそうあり続けることができず、ものとしては変わらないんだけど、存在としては変わらざるを得ないのかもしれないということが「人はなぜ絵を描くのか?」を考えるうえで気になっています。先ほどの言い方で言うと、世界と主体が分けられないとわかりつつ、主体があると思いたい。

森脇 もちろん主体はあるわけです。他方で、高田さんのある種の頑固さは僕には強みにも見えるし、それゆえ作品に一種の葛藤が生まれてユニークになっているとも言えます。

高田 ありがとうございます。ほかになにかご質問ありますか?

会場 C さん トレースして線を描くときに、気持ちが入るとか、この日はコンディション悪かったからいい線を描けなかったとか、そういう感情の起伏とかってあんまりないものですか?

高田 同じかたちを毎日描くという基準があるぶん、変化に気がつきやすいというのはあります。でもそれは感情というより疲れたな、とか身体的なことが多いです。やることは線をなぞるというシンプルな行為と決まっているので、それに従っていけばいい線が描けるという安心感のもと動いています。手元の線だけ見て描いていっても、繋げていけばあの線ができるという安心感によって描くことができていたのかなと思います。

会場 C さん どういう類いのことを考えながら描いているんですか? 無心ですか?

高田 床に描いている文字が壁に絵を描いているときに考えたことなんです。壁に描いているときはずっと、自分は今いったいなにをしているんだろうって考えている。この行為をすることでわたしや世界にどういう変化が起こっているのか。それはこういうことかなって思ったときに床に文字を描きました。なので、壁の絵は日記帳の絵なんですけど、床は滞在制作のときの日記みたいなもの。自分がしていること、この絵を作り出すことで起きていることをギャラリーの壁と床と空間で成り立っているこのぐるぐる装置のなかで考えているというか。

あと、この展示のタイトルにある「向かって行く線」という言葉を思いついたきっかけがあって。床にも文字で描いているんですけど、ある天気のいい日に外に出たら、家の近所の空に5本くらい飛行機雲がだーって出ている日があって、その線を見たときに、めちゃくちゃいい線だなと思った。で、なんでこの飛行機雲の線はこんなにいいんだろうって考えたときに、飛行機っていうのは成田空港から大阪国際空港へ行くとか行き先が決まっているじゃないですか。向かっていく場所が決まっていて、線を引くためではなくて向かって行った結果として線が引かれているだけで、別に線を引くための線ではない。この線ってそういうふうにして生まれのか、それってすごいなと思ってタイトルにしました。

森脇 さっきおっしゃっていた「指し示すための線」というのは、飛行機が飛んだ後に痕跡として飛行機雲の線が残り、そこに飛行機がかつて飛んでいたという出来事を指し示すというようなものですね。今腑に落ちました。あと、もともと日記的な出来事が抽象化されてこういったものになっているけれど、それを描いていること自体を日記的に記録している作品でもある。そういう重層性みたいなものがあるんですね。

高田 結果的にどんどん入れ子になっていったという感じですね。

会場 D さん 床に消しゴムのかすのようなものがあるんですけど、これはなにを消しているときに出た消しかすなんですか?

高田 鉛筆で壁に描いたあと、さらに消しゴムで壁になすりつけているんです。そうすることで線が太く濃くなる。そのときに出た消しかすですね。これに気がついたのは、一回壁に試し書きをしたときに本当に消そうと思って消しゴムをかけたらより線が強くなってしまったということがあって、消そうとしたのに強くなってしまったというのがおもしろくてその後も使っています。

森脇 記憶を消そうとして強くなったり、強くしようとして忘れてしまったり。そういう記憶というもののおもしろさがマテリアルに出てきているわけですね。

高田 記憶ってものすごく私的なものじゃないですか。唯一、記憶だけが本当に自分だけのものでありえる「わたしだけの場所」で。自分だけのものでありえるから死ぬと無くなっちゃう。そういう、強いけど脆い、という特性がある。絵を描いて人に見せるって、かなり近い出来事だと思います。絵が描き手の記憶を託されたもので、人がその絵を見ることでまた別の記憶が作り出されていくものだと考えたときに、描くという動き、見るという動きによる記憶のギクシャクした遷移というか、誤解や消失が起きる。そういう出来事について今後も考えていくことになりそうだなと感じています。

森脇 ある意味、これまでの作品もすごくそういうところにフォーカスされてきましたよね。僕は限られた作品しか見ていませんが。

会場 E さん どこが起点で、どこへ向かって描いていかれたんですか?

高田 起点はドアに向かって左手で、蛇行することもありましたが奥へ行ってまたぐるっとドアの右手に戻っていく流れでした。

森脇 公開制作日のときには吹き抜けの梁のところに板で足場が作られていて、上の方も描けるようにしていたんですよね。

仮設の足場 撮影:高田マル

高田 はい、上から降ってくるようなイメージだったので。

森脇 2階から吹き抜け全体を見るとまたイメージがちがうのでまだの方は見てみてください。やはりこのギャラリーの建物だからできるかたちですよね。そこがおもしろいですよね。高さがある。

高田 どうしても場所という名の世界との交渉のうえで作られるところがあるので。

森脇 そういう意味だと一番初めに話したホワイトキューブとかキャンバスとかの抽象的な媒体性とはちがって、具体的な場所に依拠した線ということで一貫されていますね。

高田 そういうことも振り返って今と繋げて考察することで初めて言葉として見えてくるなと思います。出来事としては自然と起こっていたことだと思うんですけど。じゃあ、そろそろ。

森脇 僕は何時まででもいいんですけど、有限性は必要なので。

高田 今日はありがとうございました。

森脇  ありがとうございました。

プロフィール

森脇透青
1995年大阪生まれ。京都大学文学研究科博士課程所属。批評家。専門はジャック・デリダを中心とした哲学および美学(学術振興会特別研究員 DC2)。批評のための運動体「近代体操」主宰。著書(共著)に『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人、2023年)。

高田マル
画家、絵画検討社代表。1987年生まれ。日本女子大学文学部史学科宗教学専攻、美學校を経て京都市立芸術大学大学院美術研究科油画専攻修士課程修了。2016年から「絵画検討会」呼びかけ人。2020年から一人出版社「絵画検討社」を運営。編著に『21世紀の画家、遺言の初期衝動絵画検討会2018』、『忘れられない絵の話    絵画検討会2020-2021』(ともに絵画検討社)がある。

写真撮影:間庭裕基

書籍情報

高田マル『祈りの言葉は向かって行く線、今日も同じかたちをしている朝の挨拶』
発行年|2024年3月
発行元|絵画検討社
著者|高田マル
装丁|古本実加
撮影|間庭裕基
応答|齋藤亜矢(芸術認知科学/京都芸術大学教授)、中島水緒(美術批評)、日比谷亜希子(横浜市民ギャラリーあざみ野 学芸員)
対談|森脇透青(哲学研究/批評家)
仕様|115×204mm/カラー140ページ、モノクロ47ページ/並製/「応答」のみ日英バイリンガル
価格|2,750円(税込)

サイン本販売→ NADiff online
楽天ブックス→
https://books.rakuten.co.jp/rb/17830747/
取り扱い独立系書店リスト→
https://note.com/takadamaru/n/na0ac36c0fb35

※会場でご質問いただき、本対談に発言が載っていらっしゃる方には本書を献本いたします。ご連絡先不明の方が数名いらっしゃいますので、自分です、という方はお手数ですがtakadamaru123@gmail.comまでご送付先の住所をご連絡ください。

高田マル『祈りの言葉は向かって行く線、今日も同じかたちをしている朝の挨拶』刊行記念フェア※終了

2024.03.28[木]—2024.04.14[日]
会場:NADiff a/p/a/r/t 1階店内(東京都渋谷区恵比寿1丁目18-4)
定休日:月曜日
営業時間:12-20時  ※4⽉6⽇(土)はイベントのため19時閉店
web site

高田マル個展 「この花、ダリア、ダリア、ダリア、」※終了

2024.03.28[木]—2024.04.14[日]
会場:NADiff Window Gallery(東京都渋谷区恵比寿1丁目18-4 NADiff a/p/a/r/t 1階)
定休日:月曜日
営業時間:12-20時  ※4⽉6⽇(土)はイベントのため19時閉店
web site



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