見出し画像

不登校児を軽蔑する親、見下す親

不登校児の親御さんたちの呟きが目に入ってきます。

「不登校になったら終わり、未来なんてない、ずっと泣いてた」
「高校中退したらまともな職なんてないと夫がいいました」
「通信制に行ったら負け組確定ですよね」
「不登校の子は軽蔑してた」

おいおい、言ってくれんじゃ〜ん?

不登校になって、高校中退して、ひきこもって、通信制も中退して、大検からの夜間大卒の私の前でそれ言える?あなたの何気ない一言で傷つく人もいるんですよ?

不登校児からの反撃がないってわかっているからそんなこと言うんでしょ?もしかして、不登校児本人も自分のことを「軽蔑する」と同意しているんだからいいでしょ?とか思っている?じゃあ、あなた「私デブだから」って言っている人に「やーい!デブ〜!」って言っちゃう人?

おい、そこの夫、私の前で同じこと言ってみろ!名誉毀損も甚だしい。

と、言うのは嘘で、実際には私はそこまで腹を立てていません。(もちろん、私はいいけれど、その言葉で傷つく元不登校・ひきこもりもいるからあまり好ましい言葉ではないですよね。)

相談者さんのお子さんの学校復帰を手伝っているぐらいなので、中退の大変さがわかるだけに、不登校児が学校に合流しようと努力している限りは何とかしてあげたいと日々サポートしています。ただ、後述しますが、本当の目的は別のところにあります。

不登校児見下し発言は、言われ慣れたし、自分でも同じ理由で自分をいじめてきたし、不登校をカミングアウトしたら即、下に見られて軽く扱われたり、軽蔑された経験もあります。不登校の子を軽蔑してたなんて言う母親はきっとリアルで私と会ったら見下してくる人だったんだろうな〜って思います。でも、そういうことがあっても喧嘩はせずに1人で傷ついて許してきました。喧嘩せず、傷ついたことに気がつかないようにすることが私の回復の近道だったから。

つまりね、私たち不登校・ひきこもりの赦しの上にこの世界は成り立っているんです(ドヤ!)

結局その根底にあるのは「働かざる者食うべからず」とか「自己責任」とかもそうだけど、見下しているんですよね。自分の子も含め不登校の子を。だから「受け入れる」なんて言葉が出てくる。

不登校になった私ってそんなに受け入れるのに苦痛なん?
そこまで頑張らないと、愛せないの?

これ、斎藤環先生のひきこもりダイアローグ講座で配布された資料です。

「ひきこもっている人はたまたま困難な状況にあるまともな人」

先生は著書でも講座でも繰り返しこれを語ってくれます。泣けるよね。ありがとうね、先生、そんな風に言ってくれて。大学の偉い先生がそう言ってくれるだけで、救われる不登校・ひきこもりがたくさんいるよね。

「たまたま困難な状況にあるまともな人」こんな愛のある言葉ってないと思う

これは私は先生の優しさだと思っています。先生だって本当は「未熟な不登校・ひきこもり」という意識があるから「去勢」の言葉を持ち出しているし、成熟の大切さを説いていると思うんだけど(下記引用文参照)、それを私たちに直接向けたりしない。不登校児とひきこもりの未熟さに気がついているけれど、「たまたま困難な状況にあるまともな人」と言ってくれる。だから私も、今、不登校やひきこもりにある子たちの未熟さを批判するのではなく、「たまたま困難な状況にあるまともな人」と思って接していこうと強く思っています。
同じように、このブログを読んでいる親御さんたちも、不登校児たちの未熟さには目をつぶり、そもそも人間社会、未熟な人間同士の集まりです。親として未熟で不登校を受け入れられない親御さんたちこそ「たまたま困難な状況にあるまともな子」と理解してあげてほしいなと思います。

端的にいって、現在の教育システムは、「去勢を否認させる」方向に作用します。どういうことでしょうか。まず「去勢」について簡単に説明しておきます。去勢とはご存じのように、ペニスを取り除くことです。精神分析では、この「去勢」が、非常に重要な概念として扱われます。なぜでしょうか。「去勢」は、男女を問わず、すべての人間の成長に関わることだからです。精神分析において「ペニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。

人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の捉といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。みずから望んで去勢されることは、できないのです

『社会的ひきこもり』斎藤環著

そして、斎藤先生は、ひきこもりの目標を

「自分自身の状態を肯定的に受け入れ、主体的にふるまえるようになること」

と、されています。決して就学と就労を目標にしないと言われています。


ここにも「愛」が見えます。


斎藤先生は

「自分自身の状態を肯定的に受け入れ、主体的にふるまえるようになることは、不登校・ひきこもり・親・支援者、全員の目標である。これを達成している人は誰もいない。私自身もです」

と言われました。

親と支援者が山の頂上から見下ろして、不登校・ひきこもりたちに「おーい、のろま〜!頑張って登ってこいよ〜」と言うのではなく、全員が達成していない目標を手を取り合って達成しましょう!一緒に山頂目指して登りましょうと言われるのです。

私の引きこもり時代の主治医は同じように「死ぬ前に振り返ってまあまあの人生」を目標にしようと言われました。私はあの時、主治医に言われた言葉をいまだに達成していません。就労したから終わり、結婚したから終わりじゃなく、死ぬ前に振り返ってまあまあの人生を目指して、今も山頂目指して登っています。

お互い未熟なのだから、、、。


そんな斎藤環先生のひきこもりダイアローグ講座ですが、7月8日(土)に開催されます。

詳細はこちら

会員になると安く受講できます。不登校・ひきこもりの家族はSW会員が該当します。

詳細はこちら

※ ひきこもりダイアローグ講座の紹介をすることは運営の許可をもらっています。私自身が講座で救われることと、大きな学びになるために個人的に紹介させていただいています。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?