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立ち食い寿司に行った話

 海外に住んでいると、当たり前のことが恋しくなってくる。

 どの国もそうだが、普段気にも留めない些細な物や風景が、初めて訪れた外国人には興味深く目に映ることがよくある。たとえば、タイの三輪タクシーのトゥクトゥクはタイ人や在住者にはなんてことのない存在だが、外国人は一度は乗ってみたいと思わせる不思議な乗り物でもある。

 妻の実家がある農村も、妻を始め住民たちにとってはなにもない村でしかない。実際に特徴もなく、タイではごく普通の農村ではある。しかし、ボクにとっては家の造りや村の構成、彼らの生活のひとつひとつが珍しいわけだ。ウェブや動画などでそういうところを観たことがある人はいるだろうが、実際に観光とは無縁の農村で寝泊まりしたことがある人は在住者でさえ何人いるだろうか。

 同じように日本の「普通」の風景も、外国人には珍しい。タイが長くなってしまったボクにとっても同様だ。新宿や渋谷などはいつでもどこでもバーチャル世界で観ることができるが、下町の住宅街などはあまり観られない。下町の商店街に行くと子どものころを思い出して、ノスタルジックな思いに駆られる。

 数年前に行った東京都葛飾区の立石は、子どものころには行ったことのない場所で、友人の兄が経営する会社事務所がそこにあったので足を運び、商店街にあった立ち食い寿司に寄った。立石も初めてだし、立ち食い寿司も初めての経験だった。

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 こういった商店街は日本のどこにでもある。日本人にはなんのおもしろみもない画像かもしれない。でも、タイでは望んでも観ることのできない風景なので、ボクは日本らしさを強く感じる。

 ただ、ボクの中で「商店街」というと、やっぱりアーケードというイメージだ。アーチ状の屋根があって、もうちょっと道が狭い感じがいいかな。京成立石駅の前にそういった場所があった。

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 ボクはひとり暮らしの経験は日本だと岡山県の車工場の寮しかない。だから、こういった魚屋や八百屋で買いものをしたことがない。こういうところで買いものをするのも今は憧れでもある。

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 そういえば子どものころに近所でポテトフライが流行した。ファストフードのフライドポテトではなく、肉屋で売っている、コロッケのように衣がついた、ひと口サイズに乱切りされたジャガイモのフライだ。これにソースをかけてもらうのだが、安くておいしかった。

 こういった店でこういう風に肉を買いたい。こういう古くからやっている店で。電話番号に市外局番もなければ、番号の前がまだ3桁っていうのが昔からの店であることを証明していていい。この店はまだあるのだろうか。ネットのマップで見るとこの辺りもだいぶ変わってしまっている。

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 そんな中で行ったのが、この商店の近辺にある寿司屋だった。立ち食い寿司が初めてで強く印象に残っている。

 このころ、渋谷などの立ち飲み屋にも何軒か行っている。タイには立ち飲み文化がないし、あの混雑した店内で店員や周囲の客の様子を窺いながらする注文の間合いだとか、慣れていないと行きづらい雰囲気がいい。日本人のための店という感じだ。同じように思う外国人もいるのか、ちらほらと欧米人が混じっている店もあった。

 この立ち食い寿司も、外観こそ古ぼけているものの、人気店なのか結構な客数があった。開店と同時に入ったが、カウンターはすぐにいっぱいになった。日本人にとっても今、古き良き日本がトレンドになっているのかもしれないなと思った。

 こうなると、立ち飲み屋同様に、誰がいつ、どのタイミングで、どう注文するのか。その空気感もまたボクにはシビれる要素だった。

 そんなとき、若い(?)職人が低い声で客たちに言った。

「順番にどうぞ。ただ、3つは無理です。憶えられないです。注文はふたつずつくらいだったら、ささっと行けます」

 と。まな板と包丁を用意しながら、職人らしい声で言ってくる。いいね。こういう潔い感じも。しかも立ち食いだから安いと来た。おそらく3つが無理なのは謙遜で、客を平等に楽しませるため、ひとりふたつずつにするべきだという方針なんだとボクは受け取った。

 ボクはこのとき煮ハマグリとウニを注文した。タイだとウニは輸入物なので高いし、なかなか食べられない。煮ハマグリもそう見かけるものではない。

 楽しみに待っていると、ボクの注文を受けて準備に入っていた先の職人が包丁を片手にしながら顔を上げた。ボクが注文してからわずか数秒後だった。

マグロとサーモンでしたっけ?

 ふたつすら憶えられねえじゃねえか! ボクの前にマグロとサーモンを頼んだ人すらいない。一文字も合っていないし、どこからそのふたつが出てきたんだ?

 マップを見るとこの店は残っているっぽい。いまだ客が絶えないのだろう。実際、寿司自体はとてもおいしく、この値段でさくっとおいしく食べられるのかという店だったので、人気が出ないわけがない。京成立石の駅前である。

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