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地元の駅近辺が「僻地」と呼ばれていると知ってしまったとき【竹ノ塚駅】

 ボクの自慢は方向感覚というか、一度通ったら道を忘れないということだった。しかし、20年も地元を離れると案外に忘れてしまうし、そもそも区画整理で知らない道ができていて、憶えているとかそういう話とは変わってきてしまう。今ならバンコクの道ならわりと知っていると思う。

 そんなボクの地元がエラい呼ばれ方をしていて驚いた。しかも、実際に見に行ってみたら、中高生のころに遊んでいた駅前とは全然違う場所になっていた。

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 ボクは生まれこそ荒川区のあらかわ遊園近くなのだが、育ちは東京都足立区だった。1歳前後にビートたけしの地元である梅島に引っ越し、幼稚園に入る前には埼玉県との県境にある花畑(はなはた)団地にいた。ここには20歳くらいまでいて、実家はその後埼玉県に引っ越した。ボク自身はその直後にタイに行き始めているので、埼玉の実家に愛着というかちゃんと住んだことがなく、実家と駅への道しか知らないくらいだ。

 そんな実家を拠点に、日本滞在中の出版社営業活動を行う。そして、数年前のあるとき、ある出版社で雑談をしていたときのことだ。

 ちなみにボクは会社員の営業時代からそうなのだが、本業の話をあまりせずに脱線しまくるクセがある。結局、脱線の方が本業の話だったりすることが多々あった。幸い、ライターという職業はそういった雑談からアイデアが得られるので、ボクにとってはやっぱり製造関係の会社員から転職してよかったわけで。

 その編集者は、そういえばアジア絡みといえばこんな話もあるなあ、と話し始めた。

「東京の端っこにタケノツカって駅があるんだよ。ここはもうホント東京の最果てで、僻地って感じでね。そこが今、フィリピン・パブのメッカ、リトル・マニラになっているんだ。安く飲める場所として知る人ぞ知る場所だよ。今度行ってみな」

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 タケノツカ、すなわち竹ノ塚駅は東武伊勢崎線(今は東京スカイツリーラインとか呼ばれている)の駅で、確かに東京と埼玉の境のちょっと手前にある。開業が1900年だとかで、意外と歴史のある駅でもある。

 って、ここはボクの地元の駅だし。まさか最果てと呼ばれているとは。

 確かに、柄が悪いのは否めない。ボクが小中学生のころは不良だけでなく、今なら檻のついた病院に入れられていそうな大人たちもわんさかそこら中を歩いていた。かつて大都会を「コンクリート・ジャングル」なんて呼んでいたけれども、まさにそれだ。野生動物がわんさか歩いているような世界で、ボクのような普通の少年は日々、息を潜めて街を歩かなければならなかった。ちょっとでも目立てば、あっという間に牙を剥かれる。

 ボクが住んでいた花畑団地は巨大で、ほかにも都営団地などもあったりして、小中学校の同級生の大半が団地住まいだった。今思い返してみても、ボクなんかがよく生き残ってきたものだと思う。小中学生なんて残酷で(今と昔の残酷はちょっと種類が違うとは思うが)、40代前後の人なら誰しも自分のその時代を思い返してみると、野蛮な世界だったと思うのではないか。

 そんな世代なのに、さらに団地住まいで柄の悪い土地柄だ。人間的性質がなかなかに微妙な世界で、本当にボクは毎日息を潜めていたと思う。

 花畑団地は老朽化と区画整理のために今現在解体されて始めていて、どんどんなくなっている。そんな中、数年前に神戸で児童殺害をした元中学生が名前を変えて東京に住んでいると雑誌にすっぱ抜かれた。そこがまさにボクが住んでいた団地だった。

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 竹ノ塚駅はそんな中では大都会だった。ボクらは中学生になって色気づいてくると自分で服を選んで買うわけだが、そのときに行ったのが竹ノ塚だった。上野で買いものをするのは中3、あるいは高校になってからだ。

 ちなみに、ボクは高校が上野だったので、ボクにとっての10代中盤から後半におけるお洒落発信地は上野アメ横である。

 当時の中学生にとっては竹ノ塚は繁華街だった。カラオケボックスとかもここだったし、ファミレスもこの辺り。CDを買うのも、服を買うのも、どこかに出かけるのも竹ノ塚駅からだった。実際、足立区内のほかの駅はどこもぱっとしていなかった。北千住も今ほどお洒落な街ではなく、マルイもなかったし、タケノツカ民には竹ノ塚駅で十分だった。

 最近、マンガ「闇金ウシジマくん」を読んでいたら母子で売春をするエピソードがあり、竹ノ塚駅前の描写が何回も出てきて、なんというか、そういう街なんだなと思った。

 中学生のころは船乗りになりたかった。高校は海洋関係の学科があるところをと考え、大島まで都立高校の見学会に行ったことがある。その高校の実習船が晴海辺りに迎えに来て行ったのだが、まあ正直タケノツカ民が霞むレベルのヤバいのが多く、その高校では生きられないと思った。実際、もし通っていたらおそらくボクの代が下級生を指導と称して殺してしまった事件が起こっている。

 その見学会のときに、ヤバいヤツらが出身を参加者に訊くわけ。足立区民あるあるだかが、足立区出身と知ると多くが「どこチュウ?」と出身中学校を訊く。足立区は公立校が多いので、学校を聞けばだいたいどこら辺に住んでいるか、どんな育ちなのかがわかるというか。足立区民でなくても縄張り意識の強い不良ってそういうところ大事にするじゃない? そしてボクは足立区と答えると、なぜか扱いが丁寧になった。当時の東京の中学生の間でも「足立区民はヤバい」というのがあったようで。

 確かに、ボクの同級生にも不良はいた。バイクに乗り、警官を大けがさせた人もいた。子どものころから互いに知っているので、普通にあだ名で呼んでいたし、そこまで悪いヤツだとは思ってもいないが、実はソイツはムチャクチャ有名な悪いヤツだったとあとで知ったとか。

 ボク自身はごく普通の少年である。足立区って答えただけで一目置かれた。謎すぎるが、まあちょうどよかったのでそのままにしておいたけれども。

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 そんなお洒落だった竹ノ塚駅がいつの間にかだいぶ廃れてしまった。駅前なんか妙に寂しい雰囲気になった。

 近年、年1回ほど日本に滞在するわけだが、地元は特に「こんなに道って狭かったっけ?」とよく思う。高校生のころはバイクで日光街道を走って、上野のバイク街に向かったものだけれど、そのとき、国道の幅はもっと広かったと思う。

 ところが、足立区に限らず、どこもかしこも日本は道が狭い。タイの道が広いからというのもあるかもしれない。首都高でもタイは片側4車線はあるし、路地は狭いが大通りは広い。また、ボク自身が大きくなったというのもあるのかもしれない。背丈は変わらないにしても、世界が広がったから?

 竹ノ塚駅周辺も店がだいぶ変わったし、閉まっている店舗が多い。活気もかつてほどない。

 タイはとにかく騒がしい。車も人もうるさい。デパートなんか店子が自由に曲をかけていたり、客も大きな声で話している。日本は静かだ。不必要に騒がないというより、正直不自然にすら思う。それくらい静かだ。

 そういうのもあって、竹ノ塚駅が妙に静まり返っている。特に夜になると。そうなると、編集者の「最果て」や「僻地」は言い得て妙なのかもしれない。

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 そして、実際に駅周辺がフィリピン・パブ街になっていた。正確には駅東口の南側なのだが、この辺りはまさにみんなで朝までカラオケをしに来た、’高校生のころの思い出の場所でもある。

 一時、この辺りは新聞などのニュースで見かけてはいた。このフィリピン・パブ街の前にある踏切がいわゆる「開かずの踏切」になっていて、メディアで話題になっていた。数回ほど人身事故も起こっている。しかし、まさかリトル・マニラになっているとはね。

 実際に足を運んでみた。日本ではキャバクラなんてほとんど行ったことないが、毎回高いという印象を受けていた。タイのキャバクラっぽい店の方が女の子と店外デートなどもできる上に飲み代は安いから、タイの方がいいのでは? と思っていた。タイで売買春を勧めるわけでもないし、自分はただ飲むだけなのでタイも日本も同じなのだが。

 しかし、竹ノ塚駅のフィリピン・パブはだいたい2500円前後がセット料金になっていた。これは数年前に行ったときの話だが。バンコクの似たような形態の店はそのときで700バーツくらいがセット料金の相場だった。つまり、約2450円ほど。レート的には同じくらいなのね。

 聞いた話では、元々錦糸町辺りのフィリピン・パブに勤めていた女性たちが、家賃の安い竹ノ塚近辺に住み始め、わざわざ都心に出るならここでいいのではないかと始まったのだとか。

 この辺りの事情はバンコクでお世話になった編集ライターである室橋裕和さんの著書「日本の異国 在日外国人の知られざる日常」に詳しい

 何軒か行ってみたのだが、店内も活気があった。ほかのフィリピン・パブを知らないが、東京の一般的なキャバクラより客の顔が明るい気がした。バンコクのそういった飲み屋にいる日本人もみんな鼻の下を伸ばして楽しそうだが、竹ノ塚のパブにいる中年男性たちもみんな妙に明るい。安く飲めるし、フィリピン女性も優しく接してくれるので、楽しくて仕方がないのだろう。

 こういうのを見ると、日本人もまだまだ元気を持っているし、一方では、やっぱりパワーの源は東南アジアなんだろうか、と思ってしまったり。

 とりあえず、マジで最果てになってるんだなと、実際に久しぶりに竹ノ塚駅に降り立って思った。

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