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あれから10年・・・バンコクが燃えた日

 10年前の昨日、バンコクが戦場となって、各地が燃えた。2010年5月19日のことだ。ボクは一睡もせず、5月20日の朝を迎えた。もし自宅近辺まで暴徒がやってくるならすぐにでも逃げる準備をしていた。どこに逃げるかはそのとき次第だと思っていた。妻の田舎に逃げるのか、空港に向かい日本に行くか。

 あの日のことをちょっと思い出してみた。ただ、当時の記憶を書いているので、事実とはやや異なる可能性もあるが。

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 2010年5月19日に起こったのは、赤シャツ組、あるいはタクシン派と呼ばれるグループが反政府デモとしてセントラル・ワールド・デパート前を占拠しており、政府側がそれを実弾を向けて制圧した事件だ。制圧部隊の突入時はすでに2ヶ月以上その場所を占拠し、膠着状態が続いていた。

 これが普通に生活していても感じるほどピリピリしたもので、いわばコップに溢れんばかりに入った水はちょっとした振動でこぼれる直前だった。実際にそのちょっと前から放火が相次いでいたし、セントラル・ワールドの少し北側にあるラチャプラロップ通りにはスナイパーが潜み、たくさんの、無関係の一般市民が射殺されていた。

 このころすでに非常事態宣言下だったかと思う。突入前日の18日には公休日の延長が発表され、19日からBTSなどが全線運休になる予定だった。あとで考えてみれば突入はもう決まっていたのだろう。

 上記の赤シャツを乗せたピックアップトラックの画像は制圧が始めるちょうど2ヶ月ほど前のものだ。この時点ではまだセントラル・ワールド前というよりは、政府関係施設の多い、カオサン通りの方面に赤シャツが集まっていた。おそらく彼らはそこに向かうグループだったのだろう。

 4月7日にその近辺でも武力制圧が起こっている。そのときに日本人ジャーナリストが犠牲になった。このあたりはウィキペディアにも詳しく載っている。

 2009年にも戦勝記念塔近辺(セントラル・ワールドの北の方)でも起こっている。このときはタイの旧正月ソンクラーンが終わったら、ささっとデモ隊が消えた。休みに遊び感覚で来ていたのだろう。

 2010年もそうだと思っていれば、全然終わらず。4月末にはだんだんと国民のイライラが高まってきていた。経済活動も停滞し始め、かといって終わりも見えない。反タクシン派がスワナプーム空港を占拠したときにタイ自体が終わり方を見失って今に到るが、この10年前の反政府集会単体を見ても、ソンクラーンを過ぎた辺りで政府もデモ隊も、誰も彼もが着地点を失っていた。

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 ちょっとブレているが、この画像はシーロム通りにいた兵士だ。タニヤやパッポンのナイトスポットは一応営業していた。しかし、この辺りで迫撃砲だったか手榴弾が炸裂したり、危険極まりない事態が続いていた。

 ここに兵士がいたのは、デモ隊の本拠地となったセントラル・ワールド前の通りを南下すれば、ルンピニ公園があって、その交差点からシーロム通りになるからだった。デモ隊はルンピニ公園にもバリケードを張り、軍や警察の侵入を防いでいた。

 この兵士の画像は5月8日のものだ。つまり、軍の突入の10日前である。実弾を込めたショットガンを持っているのがわかる。ほかの兵士はM16やMP5らしきものを持っているのもいた。

 ボクはこのころはまだ会社員をしていた。とはいえ、バンコクがめちゃくちゃな状態だったので、通関は停止しているし、スタッフの半分以上は出社できないし、そもそも客先もほとんど営業していない。それで自宅で仕事をしていた。

 そして、1ヶ月近く仕事が滞っていたので、当時の支社長が「今日、とりあえず集まって、書類の処理だけでもみんなでしよう」と呼びかけた。今後どうするかの話し合いを行おうと言う。

 すでに怠け癖のついているボクは8時くらいにのんびりと出た。それでも車は空いていた。多くの企業が休止しているからだ。そのころにはすでに郊外に住んでいたので、車で向かったのだが、高速から見えてきた光景がこれだった。

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 よく見ると、向こうの方に黒煙が見える。カーラジオからは今、ヘリコプターから催涙弾が投げ込まれました、というようなレポーターの声が聞こえてきた。セントラル・ワールドやルンピニ公園方面である。

 そう。よりにもよって、出勤命令が出たのが5月19日だったのだ。

 この朝から陸軍がルンピニ公園などから突入し、セントラル・ワールドに向けて侵攻していた。

 ボクは会社のノートパソコンを持ち帰って仕事をしていたので、なんら滞っていることはない。落ち着かない中、アソーク通りの会社から窓の外を見ると、こうなっていた。10時ごろのことだ。

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 煙、近づいているし!

 これはダメだとボクは判断し、支社長、そして社員に退避するように言った。でも、みんなまだ仕事が終わらず、もうちょっともうちょっと、と。だからボクは言ったよ。

すいません、ボクは会社とは死にません

 そして、11時には自宅にいましたとさ。実際、12時ごろにはアソーク交差点でも放火が始まった。同僚たちはその直前に帰宅したそうで、当時の会社に大きな被害はなかった。

 13時半ごろだったろうか。テレビで赤シャツの指導者たちが壇上に上がって喋っていた。要は、もうこれ以上犠牲者を出せないということだった。いったんは敗北を認め、解散しようというようなことだったと思う。

 実はこのスピーチが火に油を注いだ

 膠着状態で前にもうしろにも進めなくなっていたデモ参加者たちの中で特に武装し、過激派路線を行こうとしていた連中はその言葉に逆上した。負けを認めないと。結局、赤シャツとはいえ一枚岩でもなく、それぞれの思惑があった。

 指導者が発言をしている最中、スピーチを聞きながら泣く者、呆然とする者、罵倒する者が入り乱れていた。そんな中、一瞬、幹部たち全員が黙ってある方向を見た。次の瞬間、銃声あるいは爆発音がテレビ内に響き、幹部たちはスピーチの途中でステージから走り去った。彼らはそのままその近くの警察本部に駆け込んで、自首する形になった。(※念のためもう一度書くが、このあたりはボクの記憶で言っているので、事実とが違うかもしれない)

 大ボスがいなくなった過激派たちはもうやりたい放題だ。まずはセントラル・ワールドに火を放った。結果、この建物は半壊している。向かいのビッグCも燃えてほぼ全壊状態になった。このふたつの建物は今は復活して客足も多いが、この騒動の前とあとでは中のレイアウトがまったく変わってしまった。

 その後はバンコクの各地でも放火が続き、文字通り、バンコクが戦場となった。数日は大騒ぎになったが、1週間くらいで落ち着きを取り戻していたと記憶する。

 あれから10年か。早いもので。形は違えど、10年後にまた同じように自宅に籠もることになるとは誰も思いもしなかっただろう。

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