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美人とは、スティグマである。

男は美人が好きだと言われてるけれど、実は女も美人が好きだ。

同じものを買うなら、美人がにっこり笑って売ってくれる方が嬉しいし、友達だって、表情の暗い不美人と話したり遊びにいくよりも、美人が目の前にいて笑ってくれる方が心が華やぐ。

自分より美人と一緒にいると、美人の友達ばかり目立って男にチヤホヤされるから嫌。友達は私を引き立てるために、不美人を選ぶ。……なんていうのは、正直フィクションだ。

美人は、美人とつるんでいる方がよりキラキラして人眼を魅くので実質お得だということは、美人は皆知っている。

美人とつるみたがらない美人は、本当は美人じゃないと自分で思っているのに、それを隠して美人ぶっているエセ美人だ。本物の美人とつるむと、自分の秘密がバレると恐れているだけだ。


さて、そんな美人ではあるが、美人は産まれながらに美人というだけで多くを期待される。

かわいく、美しく、かしこく、愛嬌良く、やさしく、その他ありとあらゆる女の子としての美点を期待される。

かつてマリリン・モンローが期待に応えて見せた、ちょっとおバカでセクシーというイメージでさえも、女の子の美点だ。

女の子の美点は、上方向だけに向くものではなく、下方向でも美点となりうる。

しかし、だ。

美人は、美人というだけで、勝手にこれだけのものを瞬時に期待されるのだから、本人としてはたまったものじゃない。

例えば、せっかく美人なのに地味な仕事に着いた、とか。

高収入でもイケメンでもない、ありきたりな男と結婚した、とか。

見た目の良さという資本を持ちながら、資本を活用せずドブに捨てるような行為をすると、

残念美人

の、烙印を押されてしまうのだ。


地味な仕事や地味男性と結婚するのは個人の自由である。何ら非難される類のことではない。
なのに、美人は最初から多くを期待され、その期待に沿わないことをすると、勝手に失望される。

美人とは、スティグマ(烙印)であると思うのは、そういうことだ。


女の子は、若く美人であれば、それだけで生きていけるのです。

と、物語の中で語っていたのは、アンパンマンの作者であるやなせたかし先生で、やなせ先生の物語の中の若い美人は、森で暮らしていた動物が若く美しい女の子に化けて都会で暮らす話だった。

若い美人は、それだけで人に助けてもらえたり、見た目をお金に変える仕事につけることは事実だし、美人が、美人らしい振る舞いをしていれさえすれば、「お得に」物事が運ぶことは現実にある。

しかし、それは周囲が期待する「美人らしい振る舞い」することが必須条件となるわけだから、常に、他人の欲望を体現し続けることになってしまう。


美人に生まれついたばっかりに、他人の欲望を満足させるだけの人生って、本当に「お得な」人生なのだろうか。


美人とは、スティグマである。スティグマを焼き払い、自分自身のために生きる美人に、

「なんか期待してたのと違う…ガッカリ」

という気持ちが湧き出してきたら、それは無自覚な差別だ。

「私は、差別はしないし、差別しようと思わない」

そんな風に常日頃から思っている常識的な人であっても、美人に対する無意識の差別をしている可能性は、非常に高い。

差別は、差別を知るところからはじまる。

美人に生まれついたからといって、他人の期待に応え続けなければいけない理由はない。

美人は、自由に生きていい。他人にがっかりされても、そんなの知ったことかとはねのけていい。


差別とは、社会的弱者にだけ向かうものではない。

社会的強者と思われる者にもあてはまることだと、まず知ることが大事なのだと思う。



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