『おじいちゃん、死んじゃったって。』を読んで。

父方のおばあちゃんがなくなったのは、正月3が日が明けてすぐのことだった。おばあちゃんにとって僕は初孫であり他のどの孫よりもかわいがってくれた。両親の折り合いが悪くなり父よりも母を選んだ僕だったが、僕には優しく接してくれた。それでも、仕事をしていたこともあったが、やっぱり会うこともほとんどなくなっていいた。おばあちゃんと会った人たちから話を聞くと、時々僕の安否を訪ねていたそうだ。
折り合いが悪くなり何年も経ち、久しぶりに会ったのは病院でだった。おばちゃんが入院したという知らせを受け、おばあちゃんがどんな顔をするかわからないけれどお見舞いに行こう、と母と一緒に行ったのだ。病室でベッドに横たわるおばあちゃんは昔のおばあちゃんのようにやさしく、3人でいろんな話をした。帰り際にはお見舞いで貰った果物をくれた。
その後しばらくしておばあちゃんが退院したと聞いた。それからどれくらいたったのだろう、母と「そろそろおばあちゃんに会いに行きたいね」と話をしていて、その3日後に行くことにした。しかしその一日前に急に亡くなった。

おばあちゃんの死が自分にとって初めての親しい人の死だった。死んだことを聞いた日から3日間、僕は自分の部屋から出ることはなかった。ずっと布団の中に潜っていた。悲しかったわけではなかった。僕が生まれた時からずっといて、そして自分のことを思ってくれていて、会いに行けばいつもそこにいる人がいなくなったことが、ぽっかりと自分の心の中に穴が開いたようになったのだ。その穴を覗き込みながら、「人間が死ぬこと」についてずっと考えていた。
その答えは見つからなかったし、これからも見つかることはないだろう。心の穴に向かって光を照らしても声を投げかけても穴底に届くことはないのと同じように。

『おじいちゃん、死んじゃったって。』を読んでいるとふと、自分の祖母が亡くなったことを思い出した。吉子が祖父の死に対して感じたことと重なるところがあったからかもしれない。
この小説は、祖父の死を親戚の一人一人の視線から描かれた群像劇のようなものであり、読者の立場によって共感できる部分が全く異なってくる。
僕にとっては、もう今では4人いた祖父母は全員亡くなり、順当にいけばあと20年以内には自分の両親をみとる立場にある。そのことを考えた時、僕は小説の中の祖父の子供たちのような反応をするのだろうか?と考えてしまった。

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