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hanali "ROCK MUSIC" 発売によせて

このテキストは2013.09.25に発売されたhanaliの3rdアルバム「ROCK MUSIC」のライナーノーツとして書き下ろした原稿をアーティストおよびレーベルの許可を得て転載したものです。

今やGORGEの伝道師、ビーツクライミングユニット “hanali” としてよく知られる事となった土岐拓未。彼との出会いは多分西暦2000年を超えた頃、どういう経緯かはすっかり忘れてしまったのだけれどいつの間にか知り合ってずっと、何となく付き合ってきた。

自分が初めて土岐拓未を知ったのは、インターネットの掲示板上で名前を見かけたのが最初だったと思う。
SNS全盛の今からはちょっと隔世の感があるけれど、当時は掲示板(BBS)というものがネット上の交流の場としてはメインストリームで、個人やミュージシャンのパーソナルサイト、自主レーベルのホームページなんかに設置されたBBSで人がガンガン交わっていた(一方では2ちゃんねるという怪物もいたし、オレも土岐君も自分のBBSを持っていた)。
その頃のオレと土岐君が出入りしてたBBSが似通っていて、例えば□□□のサイトからDJモノリス君が運営していたmistonレーベルのサイトに流れて、露骨KIT氏が店長を務めていた吉祥寺の特殊レコードショップ「東風」のBBSに辿り着く、というようなもんで、そんな縁で見知ったんだと思う。
オレは残念ながら目にしてないけど、同時期にサン・ラとヤン富田について論争が闘わされていたという伝説の掲示板「smoke」にも、土岐君は顔を出していたらしい。
知らない人にとってはなんの話だか分からなくて恐縮だし、ただの昔話なんだけど、まぁそんなBBSカルチャーというか何と言うか、ともかくそんな場所から土岐拓未とオレはやって来た。

最初の頃は彼がミュージシャンという認識はなくて、雑誌にも寄稿する頭の切れる学生ライターだと思っていたんだけど、彼が即興演奏で(恐らく)初めて作ったデモテープがminamo率いるcubic musicのBBSで絶賛されているのを見て、あぁ彼は音楽家なんだと認識を新たにした。
きっとその頃には既にどこかのイベント会場で、お互いそうとは知らずにすれ違っていたんだろう。
今ではかなり整理されて住み分けが出来てしまった感もあるけれど、当時の東京の、おおざっぱに言って電子音楽系のアンダーグラウンドな音楽シーンはまさに揺籃期であり、アーティストもリスナーもごっちゃになって、「良く分からないが、音楽としか呼び様の無い何か」と日々格闘したり共闘したり喧嘩別れしたりしていた。
彼らの多くは二十歳台で、シカゴ音響派の雄・トータスの来日に驚喜し、サン・ラのレコードが含む微かなユーモアに笑みこぼし、シュトックハウゼンのコンポジションに歴史の重みを感じつつ、メルツバウとコルトレーンとヤン富田を同時に愛するB-BOY、みたいな、そんな感覚を共有しており、誤解を恐れずに言えば、カジュアルなオタクの一種として路上に存在していて、例えばそんな場所に土岐拓未とオレはいた。

土岐君は間もなく、壊れかけたカセットMTRという非常に特殊な演奏形態で、今や伝説となった代々木OFFSITEを中心としたフリーインプロビゼーションのシーンにおいて頭角を現す事となる。
様々なミュージシャンとの共演の中で、その特異なスタイルは当時のシーンに確かな足跡を残す。「唯一」とか「孤高」というような枕詞に価値をおいてみるならば、彼ほどその言葉が似合うアーティストはいないだろう。なぜなら、彼の演奏スタイルは一切のフォロアーを産み出さなかったし、誰も真似してみせる事が出来なかったからだ。世界でたった一人しか鳴らせない音を鳴らしている、という事は、それだけでスペシャルな事だし、もっと言うならば、それは相当にタフでストロングな事だ。
オレが彼のライブで一番覚えているのは、横尾君(現Anansi主宰、uccelli君)という共通の友人が早稲田の学祭で企画したライブイベントでの演奏。彼の手元のMTRから出される音は無機質なようでいてアナログシンセのような暖かみも感じさせる不思議な音で、無表情に操作する土岐君の姿と相まって、強烈な印象を受けた。
その時一緒にタイのエレクトロニカアーティストcliquetparが出演していて、紹介してもらって、その頃から土岐君とも近しく付き合う様になった気がする(オレはそれ以前にタイで彼らが共演したユニット “elephantronica” のライブ音源もネットで見つけて聴いていた。それは荒い録音のthis heatのデモテープの様な音源で凄まじくカッコ良かった、ように記憶している)。その流れで、2007年にオレのレーベルからcliquetpar / hanaliというスプリット7インチ盤をリリースする事となる。

そう、ここでhanaliだ。
hanaliは元々2人組のブレイクビーツユニットとして出発し、徐々に土岐君のソロプロジェクトへ移行していく事になるのだが、その過程で彼自身、傍目に見てもMTRでのソロ演奏からhanaliでのトラック制作に注力するようになっていった。
同時期に中野のヘビーシックゼロで始まった “SCUBA” というパーティーにhanaliとして参加し、地下2Fのラウンジフロアで変則的でギクシャクした土着ビートの上にノイズをカットアップするようなライブを繰り返すhanaliの音楽を当時、必ずしも誰もが(私も含めて)十分に理解していたとは言い難かったが、後にGORGEへと至るそのサウンドの源泉は確かにこの頃からしっかりと用意されていたものだと今は思う。2009年、盟友とも言えるレーベル “telemetry” より、それまでの活動を総括する、toki takumi / hanali 名義の驚愕の2枚組ファーストアルバム “Spesial Musicu” をリリース。

1stリリース後、”SCUBA” が休止し、土岐君がクライミングにどっぷりと浸った生活を送るようになると、ライブの本数は極端に減り、音楽への情熱はどこかへ行ってしまったのではないか?と思うほどひたすら山行を繰り返すようになる。
当時、彼に会うと「山学同志会の故小西政継をモデルとした漫画 “氷壁の達人” が何故か電子書籍で出版されていたんだ!」とか「佐瀬稔の第二次RCC本と ”神々の山嶺” はイシイくん絶対読むべき!」などアツい猛りを満面の笑みで語られ、50年代NYの路上でMOONDOGに自作のドーナッツ盤を差し出された紳士淑女の気持ちかくやという思いを味わっていたのだが、オススメされた書籍に触れ、登山家の山野井さんの動画をYoutubeで漁るように見るうちにその情熱の一端が分かりかけたかなーという2011年冬、墜落事故の知らせを聞いた。脊椎圧迫骨折、全治6ヶ月。

その後暫くは治療に専念しているらしいというような事を風の噂で伝え聞いていたのだが、そんな所へ「久しぶりに “telemetry” でパーティーをやろうかな、hanali復活祭で、どう?」という話がレーベルオーナーの小島君より持ち込まれる。
久しぶりに3人、打ち合わせのため新宿の沖縄料理屋でゴーヤチャンプルーだのをつつき、腰のコルセットを見せながら「だいぶ良くなったけど完治するまでクライミングは休んでる」とか「暇だから曲を作ってる」(暇だから?!)、「今度のライブは “ゴルジェ” っていうスタイルでやろうと思ってる」という土岐君からの報告を、いつもの笑顔と共に聞く。

「ゴルジェ???」

その夜は、アタマにでっかいクエスチョンマークを浮かべたまま帰路に着いた訳だが、六本木スーパーデラックスでのライブ当夜披露された新曲を聴いて「これはスゴイことになった」と興奮を抑えきれなかった。その時披露されていた曲が、後に彼の初GORGEアルバムとなった「Gorge is Gorge」に収録される「Wide & Gorge」。何かを掴んだもの特有の確信と興奮、同時に当人すら全く訳が分かっていない様な混乱と混沌が滲み出たそのトラックがプレイされた瞬間全てを理解した。彼がこの数年行ってきたハードな縦走や岩場でのクライミングで掴んだもの、つまりそれが “Gorge” なのだ、と。

その夜から、GORGE.INでの活動を経て、本アルバムのリリースまでは “日本ゴルジェ史” とでも呼べるようなものであって、その詳述は別稿に譲りたいのだが、1つだけ言わせてもらいたい。

彼が20代初めに即興演奏の現場へ飛び込み、30代にかけて地下のクラブでPCとサンプラーを使ったライブパフォーマンスへと表現の軸足を移していった事、そしてクライミングへの傾倒を経てゴルジェという音楽を掴んだ過程を、オレはある種の共感を持って完全に理解する事が出来る。
10代から20歳前後にかけて刺激的で新しい音楽を探し続けてきて、例えば当初は先鋭的な電子音楽に向けられていたエレクトロニカという言葉が生楽器と電子音を使っただけのヌルい音楽を指す言葉になった事、あるいは自分自身も音楽を奏で始めてから感じた、人間関係や細分化していくシーンに対する違和感や幻滅、「新しさ」という価値観の変化。
20代全てを使って感じたそれらの事と、何も考えずに音を鳴らせた時代を過ぎて、社会の中で職を得て日々もがき・削られながら、自分がこの人生にどう接するのかを考え、そして「それでもオレは音楽をやってゆくのだ」というある種の決意と、覚悟を決めた男・土岐拓未 = hanaliを、同世代人としてオレは心から尊敬し、信頼しています。

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#音楽 #Gorge #ゴルジェ

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