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麻布OBオケを終えて

一生の思い出


演奏会から10日経って、やっと気持ちが文章になる気がしてきた。
そもそも僕にとって、麻布OBオケは特別な存在だ。2年前の悲愴の、あの場が一つの生命になったような不思議な感覚。そのあとの校歌では、涙を流しながら大きく口を開けて歌うおじいちゃんの姿。「ああ、この歌にはたくさんの人の青春が込められているんだ」と思ったのを今でもありありと覚えている。目を閉じればいつでも、あの瞬間の映像がよみがえる。

生きる喜び

「サントリーホールで第九をやる」と初めて聞いた時は2019年、大学2年生だった。あの頃は2020年の夏にやる予定だった。2020年が麻布の125周年で、ベートーヴェンのOp.125であるこの曲をやろう、という。僕は、すぐさま1年以内に第九を演奏する近場のアマオケを探して回った。

人生初の第九の本番は、早稲田大学のアリーナのこけら落としコンサートで第九の4楽章『歓喜の歌』をやる、というものだった。本番は2019年の10月20日、天佑かと思った。ここでテノールとして出演し、早混の友達と一緒に第九の歌詞を覚えた。
二度目にやるはずだったのは、豊島区管弦楽団の第九。なんと、そこにいたのが麻布の数学科教員、新垣眞樹。すごい偶然!
本番はコロナで流れたけど、Brahms "Nanie(悲歌)"という素晴らしい曲にも出会った。

ブラームスの葬送の歌は、死者のための曲ではない。生きている人々のための曲だ。悲しみを慰めながらも、生きる喜びを思い出す。
ブラームスの生きた1833年5月7日 - 1897年4月3日という時代は、ちょうどコレラの流行~収束と時代が重なる。衛生的なまちを実現するために都市工学が急速に発達し、衛生工学や上下水道の整備、道路の拡幅といった事業が今につながっている。コッホの細菌学パラダイムやな。つい話が土木に逸れた。

やっぱり19世紀といえばパクス・ブリタニカ。「日が沈まぬ国」イギリスが覇権を取っている中で、ドイツではビスマルクが登場してわちゃわちゃしたり、僕の大好きな第4代バイエルン国王ルートヴィヒ2世が活躍(?)した時代だ。(僕のルートヴィヒ2世への偏愛をざっくり話す。超絶イケメン王子様がチョコレート食べすぎて大きなおっさんになったけど、美しい城や建築、音楽にめちゃめちゃ投資していまのドイツを象徴する景観や文化をつくっている、という話。)

まあ何せ、、、そういう時代に、あえて生きる喜びを歌うことは、本当に勇気のいる尊い行為だっただろうなと思う。まして、レクイエムといえば死者を弔い、死者の安寧を祈る曲。ヴェルディのレクイエムの「地獄の火」みたいに地獄の恐怖を煽った上で「亡くなった人があの恐ろしい地獄に行きませんように」とか願うイメージがあるよね。これに対してブラームスのレクイエムは、生きている人間のためのレクイエム。儚い人間の悲しみをありのままに受け止めて慰め、生きる喜びを思い出す。

ブラームスの親友ヨアヒムの芸術家としてのモットーが「自由に、しかし孤独に」…ってそのまんま今やん!!!
対してブラームスが掲げたのが「自由に、しかし楽しく」…ってそのまんま僕やん!!!
そう考えると、Nanieをやって第九「歓喜の歌」をやるという豊管の選曲センスは本当に好き。

コロナ序盤、2020年2月のコンサートだったので、豊島区にはぜひ開催してほしかったなと思う。自分や身近な人がいつコロナに罹ってもおかしくない時代にこそ、「悲しいときもあるよね、わかるよ、でも生きる喜びと感謝を忘れないでね」というブラームスの遺志を高らかに歌いたかった。もちろん、感染対策バッチリしてね。

それからコロナ禍で演奏とは無縁の時間がしばらく流れた。留学は中止になり、ワセオケも活動できないどころか、サークルが集まることすら禁止される日々。僕はワセオケを一旦休団して(いまも休団中)、学生団体などの課外活動に没頭した。仲間との強い関わりができて、圧倒的に楽しかったからだ。

オーボエから離れたからこそ、思い出せたこと

麻布OBオケが練習を始めるとき、僕のオーボエ奏者としての指も呼吸も完全になまっていた。多い時は週3回くらい10kmダッシュし、基礎練のレベルもみるみる上がっていった。しかし、それより重要な発見があった。一定の時間オーボエから離れたからこそ、思い出せたこと。

それは、心が演奏をつくっているんだ、ということ。
練習すると、うまくなる。うまくなると、自由になる。
自由になると、楽しいから、もっと練習に没頭する。

ワセオケ時代の僕は、「他人の音が聞けてない」「音がまっすぐ伸びない」「音程が悪いんじゃないか」「自分の音が聞けてなくて音程が悪いことに気づけていないんじゃないか」「音色が悪いんじゃないか」「楽器やリードの調子が悪いんじゃないか」などなど、悪い部分をフィードバックされて技術的解決を目指す、今思うと大変なことをしていた。「上手くならなきゃいけない」という強烈なプレッシャーがあった。手塚直子先生には毎週レッスンしていただいて、季節ごとに柳瀬吉明さんに調整してもらって、アレクサンダーテクニークを勉強して、ベルリンフィルのSchellenbergerさんとか、マーラー室内管の吉井瑞穂さんとか、N響の和久井仁さんとか、いろんな人に会っていろんなことを学んだ。そのおかげで、楽器やリードのコンディションを整えたり、楽器を長時間吹いていても身体に負荷をかけない楽な姿勢や吹き方を身につけたり、と本当にたくさんの知識を得た。しかし、「自分の音楽は一流からはほど遠い」という邪念が、僕の音楽を一流にしてくれることは決してなかった。罪悪感や不安は芸術家の敵だと思う。ワセオケ自体は楽しかったけどね。

オーボエを再開したとき、まず僕は自分の音色がきれいなことに気付いた。また、音程がぴったり合うことに気付いた。何のことはない。音色にしろ音程にしろ、ほとんど息と身体によって決まっているので、リラックスして吹くと自在にコントロールできるものだったのだ。もちろん、リラックスといっても無力と脱力は違う。オーボエを2011年4月に始めて、10年にしてやっと、脱力を会得したのだ。Albrecht MayerだろうとHansjorg Schellenbergerだろうと、好きな人の音色が欲しかったらある程度ものまねできるものだった…また、リードも、ppからffまで自由自在に出せて反応も良い、夢のようなリードに恵まれた。それからはもう、練習の際に思い悩むということがなくなった。ただ練習に没頭できるようになった。

それから、僕はかつておどおどとソロを吹いていた中学2年生の自分を思い出した。自信がなく、指も回らず、なんなら暗譜も追いついてなければ楽譜も流暢に読めないシベリウス「カレリア組曲」。
さて、ある時の演奏会本番(たしか宗教改革→ベト8→新世界のとき)、お客さんがたくさん入って「交響曲3曲プログラムだって~」とかザワザワしていたのが、いよいよ開演、と水を打ったように静まり返った麻布学園講堂。いつものように心臓をバクバクさせながら、震える手で楽譜をめくっていて、手塚先生の声がこだました。

「もし音外しても、さも上手く言ってるかのように堂々としてればいいのよ」

その瞬間、ある考えに思い至った。麻布の演奏会にわざわざ足を運んでくれる観客のみなさまは、僕がおどおどしながら演奏するのを見たくてここにいるわけじゃない。N響のように高い技術を誇る完璧な演奏を聞きたいわけでもない。
ほかでもない僕らが、青春をかけて楽しそうに一生懸命にオーケストラに情熱を注いでいる姿を見て、感動を味わいたいんだ。
とにかく、堂々とやろう。持てる限りの力を使って自由に表現しよう。
そう思い切ったとき、のだめの千秋くんが「さあ、楽しい音楽の時間だ」(cv玉木宏)という声が脳内で聞こえた。

麻布OB+オケの仲間たちは温かかった

麻布OB+オケの仲間たちは温かかった。
僕がつい勝手にソリストの部分を歌うのを、止めるどころか「本当に素敵な歌声(鈴木 優人)」とか「みんな西川くんが歌うのを楽しみにしてるのよ(高角さん)」とかめちゃめちゃ褒めてくれて。ここは天国か。

特に、木管トップ4人で練習した場面が記憶に刻み込まれている。練習のたびに明るく話しかけてくれるフルートの高角さん、練習を技術的な面からリードしたり木管練を積極的に企画してくれるクラリネットの井澤さん、脳神経科医っぽい落ち着いた雰囲気(?)と幸せな音色で場をファゴット色に染めるファゴットの大久保さん。
アンサンブルの楽しさを僕に思い出させてくれました。いくら感謝しても足りない。本当にお世話になりました。ありがとうございました。

麻布OB+オケは、麻布生とその保護者を中心に構成されたオーケストラなので、演奏会の最後には必ず校歌を歌う。

蓬(よもぎ)にすさぶ 人の心を
矯(た)めむ麻の葉 かざしにさして
愛と誠を 基(もとい)とたてつ
新しき道 先きがけ行かむ

麻の葉が「蓬にすさぶ人の心を矯めむ」とはどういうことか?

(荀子が「蓬も麻中に生ずれば、扶けずして直く、白砂も土にあらば、これとともに黒し」と言っている。麻布生といえば「染まるな、染め返せ」「空気は読むものではなくつくるもの」というイメージがあるけどね)
いま、コロナをきっかけに人の心がすさんでいる。しかし、コロナはきっかけにすぎない。安全、所属、承認、そして存在に対する根源的な不安が、コロナを盾に巣食っている。そうした不安は病でこそないが、「病気」だと思う。「気を病む」と読み下す。でも、短い大切な人生で、そんな不安に支配されている時間はあまりにもったいない。

第一、本当に病気に罹ることは怖いのだろうか。
僕が中学2年生の頃、死生観が大きく動いた一日があった。翌日これを柏倉 キーサ カリルに説明した記憶がある。

ここからは中学2年生が話してると思って聞いてね。当時の楽しみはというと、討論部の友達、それから声変わり前だったのでソプラノの音域で歌えて、午前8時30分の広尾駅のホームでモーツァルトの「夜の女王のアリア」を熱唱したこと、 劉 弘毅と一緒にゆずの「イロトリドリ」を歌ったこと。
そんな僕はこのとき、オーボエも初心者で自信ないし、塾でも最高クラスからわずか1年で最低クラスに落ち、学校の成績も麻布トップを狙っていた割にパッとせず、1年間で身長が10cm伸びるような成長期真っ盛りだったため授業を寝て過ごすことも増え、親もそんな僕にますます厳しくなり、ふるさとから遠く離れた東京の地で、僕はどこにも居場所をなくした気分になってしまいました。
そんなある夜、一晩中三角座りになって、膝にかけた布団に顔をうずめて泣いていました。えんえんと物思いにふけって、午前4時くらいのこと。

もし仮に死ぬとしよう。すると、僕がこれまで読書やら勉強やらなんやらで修業してきた時間とお金は無駄になるかもしれない。どんなに勉強しても一生懸命やっても、交通事故やお風呂での溺死ひとつですべてが無に帰すのではないか…考えれば考えるほど泥沼だ。では、何のためにこの世界に生まれてきたんだろうね。

ここで大胆な仮定を置く。
「もし仮に、この宇宙が僕のために準備されたものだったとしたら。」
もし、宇宙の138億年のすべてが、僕の生きる120年間のためにすべて準備されたものだったとしたら。
あの波乱の中学受験(詳しくは僕の麻布学園合格体験記「Never Never Never Give up!!!」を参照)にも、
小学校入学直前にインフルエンザで意識不明になって救急車で搬送されて(5分遅れていたら命はなかったらしい)1週間入院したことにも、
アトピーとの戦いのため高知県で1ヶ月療養生活を送ったことにも、
小学5年生で大阪から東京の小学校に転校して1からまた人間関係をつくってきたことも、この世界の渾身のストーリーにとって何らかの意味合いがあるんじゃないか。

僕はこんなに頑張って色んな勉強をしてきたけど、まだこの世界に何も成し遂げていないし、何も遺していない。もしここで死ぬなら、最初からそんな頑張ったって意味がなかったことになる。もしこの世界が僕のためにあるなら、ここで死ぬはずはない。
もしかして、僕の人生には使命とか、何か果たすべきことがあるんじゃないか。
そうと決まれば、明日から何か試してみよう。もし死んだら僕の仮定が誤りだったというだけだー(中学2年生の思索力ほんとにすごい。そして繊細な思索の結論があまりに大胆。カーライルが好きなのもそういう性格)

翌朝、校舎の白い壁も、そこに差す陽の光も、すべてが僕へのプレゼントのように見えた。

あれから9年。コロナに罹って死ぬことに対して僕があまり動揺したことがないのは、中学2年生の僕が、未来の自分に託してくれた希望を叶えたいから。

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候
死ぬる時節には、死ぬがよく候
是はこれ、災難を逃るる妙法にて候

文政11年(1828)の三条地震の際、僧侶の良寛さんが、被災した親友で俳人の山田杜皐に送った手紙。

僕はたまたまこの文章を知っていて、コロナが始まって以来、この言葉を胸に、覚悟を決めて生きてきた。災難に逢うときには逢えばいい。死ぬときには死ねばいい。よしや身体を病ませても、心まで病ませるわけにはいかない。コロナがあろうがなかろうが、自分の決意で自分の人生を豊かにすることができる。
コロナに罹らないように感染対策を徹底するのは当たり前。でも、「コロナのせいでつまらない人生を過ごした」という犠牲者になり下がることは、断じて当たり前ではない。

この1年半、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」がよく読まれた。僕も読んだ。もし「ナチスのせいで人生を棒に振った」と言えば、犠牲者として後世の同情を買うこともできた。しかし、彼はそれを選ばず、自分で自分の人生を切り開くことを選んだ。だから、後世の人類に勇気と希望を与えた。
その道のりは、口で言うほど簡単なことではなかったはずだ。でも彼は、それを選んだ…

僕らはいま、彼と同じ岐路に立っている。

本番前日の晩、木管のみんなに呼びかけた。

「この時期に第九「歓喜の歌」をやる意義のひとつは、コロナに荒ぶ人の心に、歓喜を取り戻すことなんじゃないかなと思います。
コロナ禍でもオーケストラみんな集まって一緒に演奏できる喜び。
みんなが生きてこの日を迎えられた喜び。
「麻布」や「オーケストラ」をきっかけに、色んな仲間とこうして出会って、全体練も木管練もパート練もいっぱいして、
短い人生のなかの一定の期間を一緒にすごせた喜びを、噛み締めながら…」

それが、「蓬にすさぶ人の心を矯めむ麻の葉」の僕なりの解釈。

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迎えた本番当日。

サントリーホールの舞台に着くと、思わず「ただいま!」と叫んだ。舞台に上がるのはワセオケ以来だ。相変わらずいい感じに反響する。

すべてが最高だったんだけど、映像を見る人に注目してほしいポイントがあるから紹介させてください。第九の3楽章に、僕の大好きな四部音符がある。108小節目のFの音。オーボエらしい生き方を極めて、凝縮したような音。共感する人がいたら教えて。

いよいよ4楽章。僕に歌を教えてくれた有川先生と、僕のオーボエが1つになった時間が幸せすぎた。70歳には到底思えない迫力…本当に尊敬する。

そして相変わらず絶品だったのが校歌。もうこれ、そろそろCDにして永久保存してほしい。
演奏会終演直後、 妹尾さんに「西川くん、ほんとうまくなったね~」と言っていただいた。本当に、文字通り、みんなのおかげなんです。1回1回の練習が楽しかった。みんなでいっぱい写真も撮った。

僕はこの前の演奏会から2年で、様々な面で成長した。
僕の大好きな指揮者、Andris Nelsons(アンドリス・ネルソンス)は先月、「音楽は魂の栄養」と言っていた。

「音楽を介して魂を、美しさを、価値を表現する。その際に重要なのは、お互いに理解し支え合うことだ。人間理解が深まると、人に優しくなれる。その優しさが、音楽を豊かにする。だから、音楽活動を通じて人をより深く理解したい。
今回のコロナで、人生が変わった。人生の感じ方も変わった。あらゆる瞬間を大切にして楽しもう、失わないようにしようと。そして、ワクチンでもなんでも、お互いを救うために必要なことを考え、優しさを取り戻す良い機会になった。天が『本当の価値を大切にしなければ破滅してしまうよ』と警告をくれているのかもしれないと思う…」

だいぶ意訳したけどそういう趣旨のことを言っていた。
(ネルソンスって本当に優しい人なんですよ。僕はネルソンスのブラームス交響曲第2番とセレナーデ2番を聴いて、クラシックで始めて泣いた。ワセオケの指揮者の寺岡清高さんも、合宿で飲みながら「ウィーンの音大時代には、アンドリスと一緒に3時間かけて登下校してた。あいつは本当に良いやつだった」と話していた)

この2年間で僕が一番成長した部分は、自分に優しくなれたことかもしれない。

練習すると、うまくなる。うまくなると、自由になる。
自由になると、楽しいから、もっと練習に没頭する。

さあ、次回の演奏会ではどれくらい成長してるかな。

あなたにとって素敵な1日でありますように!