「終戦の日に思う」

旧ブログに11年前に書いた一文を、一字一句直さずにそのまま再掲する。平成23(2011)年と言えば、ブリスベン大洪水、東日本大震災に見舞われた大変な一年。私個人としても、丁度この頃、洪水で店を畳んでからの事後処理が一段落着き、借金返済のためにようやくチャンスをもらえた配送の仕事を始めた覚えがある。
この頃から、終戦の日に対する思いは寸分も変わらないし、残念ながら、11年経った今も終戦の日をめぐっての諸事情もあまり変わらない。
このままで良いわけがない。

以下、旧ブログより転載。

「終戦の日に思う」

8月15日、先の大戦が終わった日である。
日本にとっては敗北であり、敵国であった連合国側にとっては勝利、アジア諸国には主権回復の日であり、旧日本領にとっては解放の日であった。立場はどうあれ、この日は世界中に多くの犠牲を強いた未曾有の大戦が終わり、世界の歴史の大転換点となった重要な日であることに変わりはない。 

先の大戦では、日本だけでも210万人近くが犠牲になり、そのうちの8割以上の約174万人が軍人・軍属の戦死・戦病死者。今日の戦没者追悼式で天皇陛下が、「全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し」と述べられたように、戦後66年が経った今でも、国民は等しく国のために戦い散った尊い犠牲に対しての追悼の念を表していかねばならないはずだ。 

しかし、非常に残念なことに、日本ではそれができていない。戦陣に散った戦死者の慰霊、顕彰を国民の総意としてきちんとした形で行えないのは、先の戦争に関わった国の中で日本だけであろう。今の日本では、国を導く政治家たちが国のために戦い命を落とした人々が祀られる場所で頭を垂れることすらも憚り、隣国の顔色を伺う。

こんな馬鹿げたことはもう止めにしたほうが良い。先の大戦で散った人々の犠牲があったからこそ、今の日本がある。何で、彼らの霊を慰めるための純粋な行為を、外国がとやかく言うのだろうか。しかも、なぜ日本がその国々の顔色を伺わねばならないのだろうか。戦争で若い命を賭して戦った彼らへの素直なリスペクトを表するだけで「右翼」呼ばわりされるような今の日本は、果たして彼らが命を賭けて守ったに値する国たり得ているのだろうか。

今年も閣僚は誰も靖国神社に参らない。靖国神社を参拝した議員は議員総数の1割にも満たない。「何かがおかしい」、僕は太平洋の彼方でそう思いながら、せめて自分だけでもと太平洋に散った先達のために線香を上げて静かに頭を垂れることにした。  

本当に静かな夜、66年目の終戦の日も静かに暮れ行こうとしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?