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さようなら、エレキギター。

先日、Fenderのエレキギターを手放した。
これと同時に、エフェクター等の周辺機器も手放し、私はギター演奏から退くことになった。

所有していたのは、American Professional II Stratocaster。
ギターのもっともベーシックなかたちのひとつである、ストラトタイプのギターで、サークル活動から自宅での練習、弾いてみたの投稿まで、さまざまな場面で活躍してくれた。

本題と関連した話題として、私とギターとの関係について語らせてほしい。


エレキギターとの出会いは、高校1年生で軽音楽部(入部当初は、ギター部という名称だった)の前をたまたま通りかかったことに始まる。

それまで、楽器とは無縁の生活をしていたのだが、なんだか急に、ギターを弾きたくなってきた。
中学3年の春頃、友人から「Angel Beats!」というアニメを紹介され、劇中に登場するバンド「Girls Dead Monster」の格好よさにハマっていたことが、ギターを始める遠因になっているのは、おそらく間違いない。

ここから、連鎖的にアニメを視聴し始め、ラブライブ!を介して南條さんを、そしてfripSideを知ることになる。

1発で八木沼さんとわかるメロディと、a2cさんのギターソロ、そしてそこにのる南條さんのハイトーンのコンビネーションに心が震えたのを覚えている。

ちなみに、「infinite synthesis」という楽曲が一番好きだ。
ラスサビの転調からのアウトロは、何度聴いても鳥肌もの。


Angel Beats!、ラブライブ!、fripSide、そしてそれらを結びつけるエレキギター。
どれかひとつが欠けていても、今の私は存在し得なかっただろう。


いまでは全くアニメを見ないし、fripSideも第3期として、ツインボーカル体制になっていたことを最近知った 笑。
もう離れてしまって久しいが、私をギターに巡り合わせてくれた、大切なコンテンツであることに変わりはない。


そういった経緯を経て、私はギターを始めた。
ここまで6年、本当にあっという間だった。

バンドから楽器に興味をもったわけではなかったので、バンドを組んで楽曲をコピーする中で、たくさんの素敵なグループを知った。

PassCode、BAND-MAID、D_Drive、Dragon Force、SEX MACHINEGUNS、人間椅子など、ギターを始めたからこそ、メタルやハードロック系の音楽にも目覚めた。

私にとっていわゆる「青春」は、間違いなくギターに捧げた月日であり、またギターとともにあった日々でもあった。

知らない音楽理論や楽曲はまだまだたくさんあるし、6年つづけていても、いまだに小指を自在に操ることに苦労する。
ギターとは、どこまでいっても終わりのない、奥の深い趣味である。


こうしたなかで、なぜギターを売却し、ギター演奏をいわば「卒業」したのか。
ギターが嫌いになったとか、手もちのお金を増やすために、といった理由ではもちろんない。

今でもギターソロを聴くと血が騒ぐし、「このスケールとこのスケールを繋げているな」などと勝手に分析したくなってくる。

再びギターを手に入れ、ギタリストとして「復帰」する日が来るのは、間違いない。
むしろ、10年後くらいにギターを弾いている自分が、容易に想像できてしまう 笑


それでは、なぜここでギターを手放すのか。

それを言語化すれば、「自分自身が、新たな段階に突入した」ということになる。

具体的にいえば、大学院に進学したいま、私は「文章(論文)を書くこと」「学術の世界に身を置こうとすること」に自身の存在意義を見出しており、「ギターにほぼすべての時間を費やしていた過去の自分」とは、連続しているがまた違った存在になっている。

ちょうど、ファン・へネップが「分離・過渡・統合」という概念をもちいて儀礼の過程を分析しようとしたように、大学院入学というある種の儀礼を経て、私は、個人としては連続性を保ちつつ、別の存在へと変化したのである。


博士前期課程に入学して半年以上が経ち、文化人類学という学問に、研究という立場から向き合う準備が整いつつあるように思う。

学部時代には近づくことすらできていなかった「学問」という巨大な山脈であるが、いま、装備の確認を終え、ようやく麓までたどり着いたという実感がある。

もちろん、すでにアカデミアの世界にいる人々から見れば、現在の私は、学部生とほとんど大差ない存在かもしれない。
しかし、この奥深い世界に「足を突っ込んだ」とまではいかなくとも、「突っ込みつつある」私は、確かに以前とは違う存在になっている。

「研究生活」という大学院のあり方・院生としての生活スタイルが、内面化されたとも換言できよう。


こう考えたとき、脳内にふっと浮かんできたのが、「今もっているギターを、新しいもち主の元へと循環させる」ということであった。

ギターを弾くことが好き、というのは、今も変わらず私を構成する要素の一つである。
けれども「通過儀礼」を経て、「ギターを所有すること」と、「ギターを弾くのが好きなこと」との接合関係が、自分のなかで変化した。

「ギターを弾くのが好きだけれど、ギターはもっていない」という状況である。

この、明らかに矛盾した思考がなぜ生まれたのか、私は未だ言語化する術をもっていない。

「飽きたから」「面倒になったから」といった理由からギターを手放したのなら、もっと話はシンプルであっただろう。
しかし、そういった感覚は、私の今の実感にどうも合致しない。

むしろ、「新しい場所でも頑張ってね」と、卒業式で生徒を送り出す先生のような、晴れ晴れした気もちであったのだ。


ギブソンがいう、「アフォーダンス」の理論が、もしかすると当てはまるのかもしれない。
ギターというモノから、何か具体的なメッセージを読み取り行動に移した結果が、「ギターを手放す」ということだったのか?

この辺りは、時間が経つなかで明らかになっていくことを期待したい 笑


ここまで、雑多な文章を書いてきた。
単純に、「興味の対象が移った」「ギター演奏に飽きた」といった表現では説明できない自分のあり方について、我ながら面白いなとは思う。

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