夢遊病

「君は羊男みたいだね」
彼は言う。「羊男」と言うのは村上春樹の小説『羊をめぐる冒険』に登場する謎多き男で主人公を惑わす人物、だった気がする、読んだのももう5年ぐらい前でちゃんと覚えていない。こういう時忘却が憎らしくなる。
「君も夢で生きたり、現実で生きたり、フラフラして。君を見ると毎回羊男に重なるんだよね」
「そうやって高等遊民気取って、どうするんだい?」
今の僕にはその言葉を笑い飛ばす力が残っていない。
「どうするんだろうね?」
それはいつもの余裕シャアシャアで箸休めに出した言葉じゃない。盲者が「あなたの目の前に何がありますか」と聞かれて答えられないのと同じなのかもしれない。今の僕の目には何も映りゃしない。
「村上春樹も言ってるだろ?人生は踊るんだよ」
「それはそうさ、でも曲がなければ踊れないだろう?」
「いい曲がかからないってか?それは努力が足りないからじゃないの?それとも運だっていうの?」
「運とは言わないさ、だけど自分だけじゃどうにもならないことだってたくさんある。誰しも一人じゃ踊れないしね。」
「でも羊男は一人で踊ってたじゃないか。」
「でもそれじゃ飽き足らなくて主人公たちを巻き込んだんだろう?」
「確かにそれもそうか」
彼は納得したようだが、僕自身に対しては承服しかねるところがあるみたいだった。彼は僕に同情すると言う。僕は鼻で笑う。憐れみで飯が食えるなら苦労はしない。
「何か伝言はある?」
「あんまり彼女をいじめないようにって言っておいて。」
「いじめるなんて言ったって先に仕掛けたのは彼女だろう?」
「だからってそれを受け止めるぐらいの度量はあってもいいんじゃないかな。」
あの日見た人間の不可能性、それでも僕は可能性を信じずにはいられないらしい。いや、もしかしたら信じることで現実から目を逸らしているのかもしれない。才能も器用さもない人間が誰も傷つけないなんて言うことは大それているのだろうか。帰り道、僕はポッケに手を突っ込みながら考えていた。
 今日も夜が来る。夢の時間が始まる。2度と夢が覚めなければいいのに、そんなことを願っても朝は来る。僕は夢の中で生きることもできないし、現実にも適応できていない。夢を見ながら現実を生きるのは夢遊病者だ。だけど僕の夢はきっと覚めてしまう。朝起きたら全てひっくり返っててもいい、世界が終わっていても構わない。そんなことは起こらない。きっと訪れる朝はゆっくりと僕に致死量の毒を盛っていくのだろう。甘い香りの彼岸花に誘われたら、これが最後の季節になるのだろうか。
「季節に取り残された渡り鳥は朽ちていくだけだよ。」
 誰かが耳元で囁く。

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