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日記 260422

 今日はaikoの42枚目のシングル『ねがう夜』のフラゲ日である。僕がaikoのCDをフラゲするようになったのは3年前からだ。旅先で買ったこともあったが、地元でフラゲするのは初めてだった。これは私が『ねがう夜』に出逢うまでの物語である。

 ランニングがてら近所のTSUTAYAでaikoの新譜を買おうと思った。ランニングは今の僕の生活において不定期であれどその一部となっていた。だから、それは自然な思いつきだった。僕は走ってTSUTAYAまで行く。果たして新譜はなかった。『どうしたって伝えられないから』の初回限定版が30%OFFで売っていただけだった。気落ちしながら、向かいのブックオフに行く。中古のCDしか置いてないその店で僕はごく自然に古本のコーナーで一冊の本を手に取った。『快楽上等!:3.11以降を生きる』上野千鶴子の文字が目に入らなければ手に取らなかっただろう。その「あとがき」に次のように書いてあった。「湯山さんは「秘境体験をするのに海外へ行く必要はない」と言い切る。女人禁制の「秘境」は都会のどまんなかにもあるからだ。」(上野・湯山,2015:320)湯山さんは、寿司屋の板前をしていたようだ。そして、寿司屋のカウンターの向こう側は女性にとっての秘境なのだという。僕は昨晩読んだ一節を思い出す。「すべての人間は異なっている。しかし、誰かが他の人よりももっと異なっているということはありえるだろうか?遠く離れて暮らす人たちより、近くにいる人たちとのほうが互いに共通点が多くあると言えるのだろうか?結局のところ、私たちは常にこのようにして、それぞれの文化に人々をあてはめ分類するよう教えられてきたのである。」(インゴルド,2020:36)もしかしたら,文化というものは外在的なもので、私たちはそれを無意識に内面化しているだけなのかもしれない。寿司というわたしたちが慣れ親しんでいる「文化」であっても、それが同時に「秘境」でもあるのだ。わたしたちが単一の「文化」だと思っていても、その中には差異が溢れている。しかし、そうだとしても、内在化された文化はモラルになり、そこから抜け出すこと、それを対象化することは難しいのかもしれない。

 ゲオにも寄るがやはり中古CDしかない。僕はイトーヨカドーに流れ着いた。かつてそこにあったCDショップは無くなっていた。街は変わる。腹を空かせた僕はポッポでポテトを買う、ポテトのパッケージも値段も変わっていた。しかし、少し声のしゃがれたおばさんが変わらずそこにはいた。それは、僕にとって変わらない街との出逢いであり、そのおばさんとの再会であった。「出逢い」は物語の交錯である。その交錯は点かもしれないし、線になるかもしれない。2度と交わらないかもしれないし、回帰するかもしれない。それでもそれらは確かに交わったのだ、それはきっと詩的なものなのだ。もちろん、この「詩的」という言葉を人々は言い換えるだろう、社会的、運命的、神秘的などなど。それは立場や知見や経験によって左右されるものだろう。私は出逢いを詩的だと表現する。私にはこの表現しかないから。きっとポッポのおばさんは目の前の客がそんなことを考えていることを想像すらしていないだろう。彼女は出逢いをなんと表現するだろうか。交錯した物語であってもこれは私の物語なのだ。

 小雨の降る中、僕はポテトとファンタのメロンソーダをつまみながら歩いて進んだ。最初は熱かったポテトもやがて冷める。イオンモールでaikoの新譜と僕は出逢えた。僕は初回限定版を買ってそのまま帰る。走ったり、歩いたりしながら、僕のリズムで。

【参考文献】
上野千鶴子・湯山玲子 『快楽上等!:3.11以降を生きる』幻冬社、2015年。
インゴルド、ティム(奥野克己・宮崎幸子訳)『人類学とは何か』亜紀書房、2020年。

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