訃報・手紙

 祖父が死んだ。深夜にメッセージが入る。人間は死ぬ、神を信じていようがいまいがそれは決まっていることだ。御年96歳、死因は老衰だそうだ。必然、そんな風にも言えるのかもしれない。どこかで僕も予期はしていた、それでも突然であった。
 最後に祖父に会ったのはいつになるだろうか。僕が高校に入るか入らないかの頃だったから8年ほど前になるのだろうか。それから全く会うことができなかった。適切に言えば、僕が会いに行かなかったのだし、会いに行けなかったのだ。
 僕と祖父の間に血の繋がりはない。祖父は僕が10歳の時に母が再婚した義父の父親だ。そのためか、どうも僕自身の家族との関わり方、関係がこんがらがるにつれて祖父とも疎遠になってしまった。そのことがいつもどこか頭の片隅で引っかかっていて、いつか会いに行かなければと思って、言い訳をして、そして会えずじまいになってしまった。会って話さなければという気持ちと、会って話したいこととがあった。彼から見て、僕はなんだったのか、結局聞けずに終わってしまった。いや、結局僕は言葉を持っていなかった。もし祖父を前にして絞り出す言葉があったとしても、それは僕の気持ちを翻訳する言葉ではないだろう。だから会いに行けなかったのか、話せなかったのだろうか。しかし、時間がどれだけあったとしても、その言葉を紡ぐことは、見つけることは、できなかったのではないかと思ってしまう。

 そもそも祖父に会ったのも数えられる程度だ。いつも僕たちが行くとニコニコして、辛うじて聞き取れるぐらいの声で話しかけてくる。とりとめのないことばかりだ。根掘り葉掘り聞くという感じでもない。そして、僕の受け答えはというと、いつもどこかぎこちなかったと思う。けれど僕は、そのぎこちなさが全てだったとは言いたくないのだ。僕と彼との関係は、たまたま彼の息子と僕の母が結婚したというだけだ。しかし、それは関係のとっかかりに過ぎないのではないだろうか。確かにそのとっかかりはぎこちなさの一つの要因だったとは思う、けれどその関係に何か他の可能性を期待してしまう僕はただの楽天家なのだろうか。きっと僕が彼に会って確かめたかったのはその可能性だったのだろう。
 祖父の死はその可能性をある意味で閉じたのかもしれないし、その一方で開いたのかもしれない。彼の実体はもうないし、僕が彼と話すことはもうできない。しかし、そのことは彼の存在それ自体が損なわれることを意味しない。彼の存在というのは誰かの記憶の中に、そして僕の記憶の中にあり続けるだろう。こうして彼のことを僕が書くということも彼の存在を示すものとなるかもしれない。しかし、記憶は必ずしも事実に忠実ではない。記憶はいつの間にか抜け落ちて、脚色されていく。言うなれば、僕が彼のことを如何ように解釈しようと、彼の実体が存在しないことでその答え合わせのしようがなくなるとも言える。それはある意味で彼の存在の可能性を示すだろうし、それは同時に、彼の実際的な存在の不可能性を打ち立ててしまうのだろう。
 
 祖父の葬儀にはコロナの関係で出席することができなかった。少しして僕は祖父に手紙を書いた。こんな形の挨拶になってごめんなさい。あなたに話したいことがありました。それでも言葉が見つかりませんでした。

手紙は 手紙は燃やしてください

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