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ファッションアイテム

オートバイに乗るということは、その身一つで公道にあるということで。危険も責任もある一方で、曰く言い難い胸躍る体験でもある。

クルマとバイク

例えば自動車に乗る場合、エアコンの効いた車内にいれば暑さを感じることもなく快適に時間を過ごすこともできるわけだが、車窓に映る景色はゲーム画面やテレビのオンボードカメラの映像を見ているのとさして変わらない。これは走るということではなく、単に移動しているに近い。

オートバイなら、エアコンなどもちろんなく安全のためヘルメットやグローブ、ブーツはもちろんプロテクターもジャケットも着込んでいるのだから夏の暑さは快適とは程遠い。だがヘルメットのシールド越しに見える景色、ジャケット一枚隔てた世界はまさにライダーがその身で走り抜けるリアルな世界だ。

大気と快楽

走り抜ける世界に存在する大気は壁となり、マシンとともにそれをかき分けるライダーに、えも言われぬ快楽となって覆いかぶさってくる。呼吸する大気はその世界のエアーそのものだ。温度、匂い、そして音。これらはオートバイに乗るものにしか感じられぬ快楽の構成要素だ。

オートバイの排気量には関係がない。だから走る速度にも無関係だ。速度とライディングの楽しさはけして比例関係にはない。オートバイで走ることそのものがライダーの快楽である。速く走ることはオートバイに乗ることの本質のごく一部だ。

ライダーの感じる胸のすくような快感とは、このままどこまでも走っていける可能性とその手段を手にしているという実感だ。

バイク乗りはいわば旅人である。準備も目的地もなにもない。愛車とその気、走る道さえあればいいのだ。ライダーはうまいコーヒー一杯のために100キロでも200キロでも走る、走る、走る。気分よくさまよい、マシンと道と対話する。

自己肯定感

年齢を重ねれば重ねるほど、こうあるべき自分、期待される自分というものが大きくなり、こうありたい自分と乖離していくこともある。下世話な表現をすればこれは「中年の危機」というのであろう。バイク乗りにはそれぞれ「こうありたい自分」というものがあるが、その中には「愛車でどこへでも走っていける自分」が占める割合が大きい。愛車に乗っている自分が最高に輝いていると感じるのだ。これは自己肯定感である。中年の危機とは「こんなはずではなかった」という自己否定の念であるが、バイク乗りはマシンに乗ることで自己肯定感を獲得している。

この自己否定というのは残念なことに21世紀の現代では20代の若年層にも広がっている。職場、家庭と様々なシーンで自己の価値や存在意義を見出せず、言い換えればイケてる自分を見失っている。

オートバイは、乗り手を魅力的に演出するファッションアイテムである。ただし誰でも手に入れることができるわけではない。排気量に応じたライセンスが必要で、ここをクリアすることが最初期の自己肯定のプロセスになっている。

限定解除教習

僕は50歳をすぎてから限定解除(400cc以下という限定条件を解除する=大型二輪免許の取得)をした。30年前に中型二輪(普通二輪)を取得して以来の免許だった。バイクに乗るだけなら当時から所有しているスズキGSX250SSで十分なはずだったが、自分にも何か最高峰のことが(400cc以下のバイクにしか乗れない限定条件を解除することが)できると証明したかった。一発試験ではなくて教習所に通ったが、人生の折り返しを過ぎた僕には大きな挑戦だった。

18歳のころ、大型二輪に乗るための限定解除試験は試験場でしか受験できず、合格率は数%の狭き門であった。すでに下火になっていたとはいえ三ない運動の余波がくすぶる世相では、試験を受けること等思いもよらない高校生だった。そして30数年を過ぎ、限定解除をしていないことが、まるでコーヒーカップの底にこびりついた粉のように心の中に残っていたところへ、今は教習所で限定解除ができるときいて、いてもたってもいられなくなったのだった。

教習は思いのほかうまくいった。第二段階だったかの見極めで念のため1時間の補修をした以外は。

教習車は昔ながらのCB750FかNC750という最近のマシンが用意されていた。乗りやすいのは圧倒的にNCの方だった。何しろ2気筒車で軽かった。ただし、卒業試験の時に好きなバイクに乗れるとは限らないと聞いていたので、最初のうちだけでもと思いCBに乗っていたが、乗るうちに慣れてしまった。すると途中で新しいバイクに乗り換えるのがおっくうになってしまったのだった。
やはり乗りやすいNCは人気なのか、僕以外の教習生でCBに乗って練習していたのはNCがすべて埋まっていて乗れないからという理由の人ばかり。一方僕は好んでCBを使うので、もう教習予約受付の段階で最初からCBを割りあてられていたようで、NCにのることは結局一度もなかった。卒業検定では結局、CBとNCどちらにするか聞かれたが、ここまできたらとCBで挑戦、合格した。いつも同じ7号車。検定試験でも7号車だった。縁があるのだ。

初体験

生まれて初めての体験ができるというのは、年齢に関係ない。人生初のナナハンは、魂を引き抜かれるような加速体験だった。初めてクラッチをつないだ瞬間のことは死ぬまで忘れないだろう。

スタート位置にCBを持っていき、各灯火器やレバー、ペダルの点検をやる。ミラーは教習開始時に教官の前で確認しないと怒られるので後回しに。

特に指示されていないが、バイク趣味に戻って以来の習慣だった。

ひきまわしは何もかもが重く、動かすのも止めるのも一苦労。この重きこと力士のごときナナハンの巨躯も、エンジンに火を入れ、ギアをファーストに、アクセルを開ければ地面を蹴とばすように猛然と加速していく。もちろん教習車だから、そんなにすごい加速をするはずはないのだけれど、僕にとっては異次元の体験だった。

教習期間中は時間を見つけては、愛車の250SSで一本橋や低速運転の練習をした。CBよりはるかに軽い250SSは、どうかすると教習車のCBよりむつかしいと感じた。CBのアクセルはきっと調整されているのだろうと思った。

普段の練習も奏功して卒研は合格。僕は晴れてどんなに大きな排気量のバイクでも運転できる資格を得た。

卒業証書を受け取ったあと、教官が言った。

「大型持ちはすべてのライダーのお手本になってくださいね。」

そうだなと頷いた。

評価 期待

自己肯定感は周囲から評価され、期待されることでも得られる。どんなに大出力のバイクに乗っても大丈夫な技量を身に着けたと評価されたし、すべてのライダーのお手本になることを期待された。

大型教習で得たものは免許だけではなく、自己肯定感も得たのだった。


これから

限定解除をして大型に乗れるようになって、自分がかっこいいと思っていたカフェレーサースタイルのクラシックなバイクを買った。レーサーとはいっても教習者よりも加速感はないし、出力や速度を争うようなバイクではない。

120年前からある世界最古のオートバイブランドで、自分が一番よく見えるモデルだ。今バイクはファッションアイテムだから、これでよいのだ。

これからも自分がかっこいい自分でいられるようなバイクライフのスタイルで、走っていく。


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