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閉寮した宇治寮の生きざま

↑2012‎年‎11‎月‎30‎日、‏‎11:21 宇治キャンパス近くにある名パン屋「たま木亭」
 この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2023の34日目の記事です。

 昔存在した寮の話を掘り起こすことで、共通点や変化点を確かめたい。

・宇治寮は1956年頃~1965年まで存在した
・熊野寮の誕生と入れ替わり閉寮した
・当時から委員会制などルールの骨子はあった
・現在の宇治グラウンド東側にあった
・閉寮時に壁に穴をあけていた

宇治寮のできる前

 宇治市五ヶ庄旧大阪陸軍兵器補給廠宇治分廠跡が宇治寮の前にあった。ブログ(大日本者神國也曰く、宇治分廠というのは1871(明治4)年からある宇治火薬庫が1940(昭和15)年4月1日に改称したものだ。戊辰戦争の終結をきっかけに、宇治五ヶ庄の萬福寺(万福寺とも)領が火薬庫の候補にされていた。
 偶然だが、熊野寮設計相談役かつ旧制三高の自由寮にお住まいだった西山夘三さんも1938年頃に近くに住まれている。大学院時代、徴兵検査を受け見習士官勤務で八連隊の予備役歩兵少尉だった時代、ちょうど日中戦争がはじまり召集された先が宇治火薬製造所だった。

住み方の記 著:西山夘三 出版者:文芸春秋新社 出版年月日:1965 p. 115

 一時期は、黄檗駅と萬福寺の間に住まれていた。

(前略)山の手にある補給関係(兵器敞といった)の火薬庫の方が注目され、いっしょくたに「火薬庫」と俗称されていた。日本陸軍の創始者の一人、大村益次郎がここに火薬工場をつくることを考えたと、どこかで見た記憶があるが、製造所は日清戦争で火薬の需要が激増したとき初めて建設にかかり、明治二十八(一八九五)年にできた。

住み方の記 著:西山夘三 出版者:文芸春秋新社 出版年月日:1965 p. 116

この火薬製造所はのちの京大宇治キャンパスとなる。

これより先に京都大学は、京都府久世郡宇治町五ヶ庄(現宇治市東宇治町)の旧陸軍火薬敞のち、敷地23,882坪(78,811㎡)とその地域内の建物(火薬製造工場及び火薬貯蔵庫)を借用し、(中略)これを宇治分校とした。

京都大学七十年史 p. 798

宇治寮の設置と開設

 宇治寮の歴史は教養学部のあった宇治分校とともにある。京大百年史の年表によると、1950年5月1日に宇治分校が開校され、1回生は宇治分校、2回生は吉田分校で受講とある。最初の2年間は専門科目はなく一般教養のみだった。

宇治分校は昭和25(1950)年5月1日に開校されたが、そのときから1回生は宇治分校で、2回生は吉田分校で授業をうけるという原則が成立した。

京都大学七十年史 p. 798

 当時の年鑑のような書籍、「京都大学一覧 昭和18-28年」にはこうある。

1952年(昭和27年)
宇治市五ヶ庄旧大阪陸軍兵器補給廠宇治分廠跡に寄宿舎宇治寮を開設した。

京都大学一覧 昭和18-28年出版者:京都大学事務局庶務課 出版年月日:1954 p.37


 京大百年史の年表によると、1954年6月24日をもって宇治寮開設としている。京大一覧によると1952年設置のはずはだが、2年間空き家にしてたのかしら。少なくとも、1回生で入寮した尾池さんは1954年4月の入学なので、1954年の時点で入居者していた。京大一覧と百年史で「開設」の定義が異なるのかもしれない。
 当時の様子を京大一覧で見てみよう。

設備の充実とともに学生の自治意識も次第に進み、昭和五年自炊制度が実施されて舎の運営はすべて学生の自治に委ねられるようになった。現在南寮、中寮、及び北寮の三棟百二十一室に一室一人乃至二人を収容し、総収容数は訳百四十七名である。役員は総務三名(庶務・会計・電気)のほかに炊事部・運動部・文化部・衛生部及び厚生部の各委員があり、運営に関する事項は各寮より十名ごとに一命を選出構成する評議委員会がこれを決定する。 舎生は希望者の中から厳選されるが、開設以来収容した人員は訳千八百名に達する。昭和二十五年五月宇治分校の開設に伴って、同二十七年四月同校に寄宿舎宇治寮を設けた。和式・洋式各一棟よりなり、一室二人制で総収容数は訳七十八名である。

京都大学一覧 昭和18-28年 出版者:京都大学事務局庶務課 出版年月日:1954 p.37

 南寮、中寮、及び北寮から成る、収容人数147名の寮とは吉田寮のことだ。また、吉田南キャンパスに存在した自由寮(新)は1948(昭和28)年1月26日に焼失している。この頃、すでに現代とほぼ同じ委員会制だったのね。私は熊野寮では2007年に炊事部に所属していたし、初代シャワー局局長だった同回生の友達は衛生部ならぬ厚生部だった。
 宇治寮の外観写真が残っている。和式か洋式いずれかの一棟だろう。

宇治学生寮外観 京大大学文書館 年代不明

 1952年6月23日、寄宿舎宇治寮規程が制定される(京大一覧 p. 38)。さらに1959年に京都大学学生寄宿舎規程が制定される。1967年発刊の京都大学七十年史 p. 208には以下のように記載されている。

  • 各寮は学部学生に限り入舎させる

  • 入舎選考は学生部長が行う

  • 寄宿料は100円。光熱水料は別

  • 在舎期限は入学後1年

  • 以下のものには退舎を命じれる
    1.秩序を乱した 2.健康上不適当 3.寄宿料および光熱水料を納付していない

「学生生活がより充実したものになるようにとの配慮のもとに制定された」とのこと。

宇治寮の電力使用料 京都大学百年史【写真集】第4章: 新制京都大学の発足 p.97

 その後、この規程の内容をめぐっての議論は京大新聞「吉田寮百年物語」に詳しい。

どこにあったのか

 航空写真と当時の証言から照らし合わせて、宇治寮の場所を同定してみよう。
 前述したように、俺たちの尾池元総長は宇治寮ご出身であり、萬福寺付近に寮が存在したようだ。

土佐高校から京都大学理学部に入った。京都市ではなく、1回生の間は宇治市の黄檗山万福寺のある黄檗の寮に入った。毎日大学と寮の間を歩いて往復する生活が続き、たまに京都市内に遊びに行った。

尾池和夫の記録(192) 土佐中高から京都へ  | なまず(尾池和夫)のブログ (ameblo.jp)

 また、建築学科ご出身の方のブログも見つけた。国鉄、今のJR奈良線の東側らしい。

私が京大工学部建築学科に入学したのは1960年(昭和35年)4月である。その年度で京大宇治分校閉鎖、したがって宇治寮も閉鎖されたので私達が京大宇治寮最後の世代となる。その寮は、京大宇治分校から京阪電車宇治線、国鉄奈良線を越えて東側の山の方に上がった所にあった。北寮と南寮があり私は北寮の2階17号室ではなかったか。和室六畳間で二人部屋だった。

西村一郎の地域居住談義 京大宇治寮での生活 2005-11-08

  防災研の記事曰く、現在の宇治グラウンド辺りらしい。

2013 年12 月4 日午後、1959 年に京都大学に入学し、宇治寮(宇治キャンパスが教養部キャンパスだった頃、現在の京都大学宇治グラウンドのあたりにあった学生寮)で1 年間を過ごされた元寮生とその同伴者の計34 名が来所されました。

京都大学宇治寮同窓会一行が来所 | 京都大学防災研究所 2013.12.04

 京大百年史の年表によると、1967年11月5日、宇治市五ケ庄の宇治総合運動場開場式が挙行されている。その前後の年における、国土地理院の航空写真を見てみよう。

1961/05/01(昭36)京都東南部
1972/05/31(昭47)京都東南部

 道路の形状から、1961年の写真の右側、1972年でいう東側の宇治グラウンドにある東西に長い2棟の建物が、当時の宇治寮と思われる。1959~1965年まで存在したので、年代もあっている。萬福寺の南、JRよりも東側だ。

住んでいた人々

 他にも、当時の雰囲気が伝わる内容を掘り出してみよう。 

当時、まだ旧制高校のバンカラ風が残り、「窓ション」というのもあった。1960年は、安保闘争の年、皆「挫折」の気分、秋の寮祭の後、寮生の一部が京都女子大寮に「ストーム」をかけ乱入、次の日の「京都新聞」に大きく報道された。私は、残念ながら酔っ払って寮で寝ていて参加できなかった。

西村一郎の地域居住談義 京大宇治寮での生活 2005-11-08

 宇治寮でも寮祭があったらしい。色々とバンカラの気風が息づいているエピソードだ。「窓ション」は古くは「寮雨」といい、旧制三高時代の自由寮含め全国の寮でも見られた現象である。

自由寮の寮雨に関して一目でわかる絵葉書。「コラッ」
西山夘三「すみ方の記」新住宅 : brains & works for urban life 18(198)(11)p.80

 現在はないはずの風習である。国会図書館デジタルコレクションに、いくつか宇治寮に関する記載を見つけた。

拙文は、宇治の春、と題し、昭和二十七年の春、私が京都大学文学部に入学し、黄檗山萬福寺裏手にあった京大宇治寮に入居したのであるが、当時の寮生は極めて貧乏であったこと、今なお寮生とは年一度の七夕会という同窓会を持ち、昔に変わらぬ交友関係を温めていること(省略)

根来泰周 経営コンサルタント (518)著:経営政策研究所 出版者:経営政策研究所 出版年月日1991-12 p. 21

 本のタイトルからして宇治寮と全然関係なさそうだが、当時の編集長内田英之さんが宇治寮ご出身だった伝手で、記事を書いてもらったようだ。他にも、宇治寮に関わる記載が同じ本にあった。当時も入寮の理由は様々だったようだ。

 また或る者は、家庭が貧しくて学費を自らの手で稼ぎ出さなければならないので、生活費が安くて済む安上がりのアパートという風に考えて入寮したものもあった。そして、或る者は、かぶれかけていた左翼思想をさらに深めるため、議論の相手を得るために入寮してきていた。

大熊曉 経営コンサルタント(549)
著:経営政策研究所 出版者:経営政策研究所 出版年月日 1994-07
 p. 23

 他の記事が組織経営に関して論じている中、この人だけ題目が「タコ焼」と異色だ。ただ、ひじょうに生き生きと当時の情景を描いていらっしゃる。

寮には食堂も風呂もなかったので、食事は大学の構内にある生活協同組合の食堂へ食べに行き、帰りに銭湯へ入ってくるのが常であった。

大熊曉 経営コンサルタント(549)
著:経営政策研究所 出版者:経営政策研究所 出版年月日 1994-07
 p. 22

宇治の生協食堂の写真も残されている。

生協宇治食堂の行列 京大大学文書館 年代不明

 風呂はないので銭湯通いだった。

 私たちは、旧制三高の歌「紅萌ゆる丘の花・・・」や「アルトハイデルベルグの歌」を歌いながら洗面器にタオルと石鹸を入れて寮と銭湯の往還をかっ歩した。
 寮に帰ると語学の予習、復習をするものもあれば、碁盤を囲むものもあり、或る者は、郷里の両親に手紙をしたためた。

大熊曉 経営コンサルタント(549)著:経営政策研究所 出版者:経営政策研究所 出版年月日 1994-07 p. 22

 和室の写真が京大文学館に残されていた。

宇治寮 室内?とされる写真 京大大学文書館 年代不明

 ある日、友達と歩いて平等院まで行き、照明に照らされた建物に感動されている。その後、歩いて帰る際に

 空腹を感じたので、タコ焼をたべようということになり、ポケットの有り金を出し合うことにした。驚いたことに集まった金は十二円しかなかった。
 それでも、タコ焼は十個程度木舟に入れて二十円で売っていたので、逆算すれば六個買えることになる。
 タコ焼屋のおやじが目を白黒させているのを尻目にタコ焼六個を買った私達の三人は、一人宛、爪楊枝で突き刺しながら、替わるがわる二個ずつのタコ焼を頬張ったのである。空腹であったとはいえ、二個宛食べたタコ焼の味は格別であった。

大熊曉 経営コンサルタント(549)著:経営政策研究所 出版者:経営政策研究所 出版年月日 1994-07 p.22

 とのこと。この時の、タコ焼の味が本当に印象に残られているようだ。

どうする退寮後

 当時の京大教養学部宇治分校は1年だけ通うもので、宇治寮の在籍1年までという規程もそれに合わせたものと推察される。ほぼ1回生しかいない寮というのも面白そうだが、では左京区吉田キャンパスがメインとなる2回生以降はどうしていたのだろうか。

京大時代は, 前半は宇治寮で, 後半は吉田寮で, 寮友たちと夜のふけるのも忘れて様々な問題を論じ合ったが ,(後略)

宮原克典 道路建設 (519)
出版者:日本道路建設業協会 出版年月日:1991-04

晴れて京大2回生になり、宇治・黄檗から京都市内に移ってきたのは、1961年4月である。最初は、宇治寮の続きで吉田寮に入ろうかと思ったが、色々と聞いて止めた。下宿を探そうとして、結局、宇治寮の時のルームメートの山根恒夫君(現・名古屋大学名誉教授)と一緒に左京区浄土寺下南田町の学生アパートに入ることになった。ここには4回生まで2年間いた。

西村一郎の地域居住談義 左京区浄土寺下南田町のアパート
2006-06-04

 吉田寮に入るもの、左京区で下宿するものと色々いらしたようだ。当時は第一次ベビーブームによる学生数増加(いわゆる団塊の世代)の影響により、左京区の下宿事情はひっ迫していたらしく、ルームシェアも多かったろう。

破壊と再生

 宇治寮は1965年に閉寮された。京都大学新聞によれば「1965年4月、プランに基づき熊野寮のA棟(200人)及び食堂が開設した。同時に宇治寮は閉鎖」とある。その際のエピソードは熊野寮一期生の村上さんが、当時の上級生から聞かされている。

その上級生達によると、「宇治寮の最後の頃は、隣の部屋に行くのに廊下を通らないでも行けた。というか、行けるようにした」。キョトンとする我々に、「どうせ取り壊すんだから、隣の部屋との壁に穴を開けて、行けるように改造したんよ」と、事も無げに言い放った。

新築の熊野寮で受けた洗礼 株式会社村上憲郎事務所 代表取締役 村上憲郎さん - 京都大学広報誌『紅萠』 (kyoto-u.ac.jp)

 宇治寮の最後は部屋間が貫通していたらしい。1934年に室戸台風によって傾いた旧制三高の自由寮(旧)は自由寮(新)に建て直されることになるが、その際も壁をぶち抜いている。

自由寮も哀れや斜めに傾き、ストームの度ごとに今にも崩れナン有様で、(中略)台風から立ち退きまで殆ど一か月くらいは傾いた寮に立て籠もり、思い出の大ストームを何回もやらかし、隣室との友情いや増した結果ついには壁をぶち抜いて直接交通をやったり、また近くのおでん屋「満豪」で何回となく別離の杯を酌み交わしたり、比較関静穏であった寮生活に大きな波紋を生むことになった。

三高私説 自由寮素描 藤安義勝 同窓会報64 (1986)

 宇治寮閉鎖の1965年に対して30年もの隔たりがあるはずだが、なぜか同じことが繰り返されている。

「お前が嫌だっていってた “冷たい壁”ってのはよォ… ブチ壊してやったぜ?」

鬼塚栄吉『GTO』藤沢とおる/講談社
自由寮(旧)と宇治寮に連綿と続く伝統
『GTO』藤沢とおる/講談社

 そういえば、熊野寮玄関横の事務室で、当番席の真上の天井に、穴が開いて補修されているのをご存じだろうか。

熊野寮の思い出はたくさんありますが、中でも思い出深いのが事務室の天井の落書きと銭湯です。

熊野寮五十周年記念誌(上) I.N.(旧姓 J)02年入寮 p.189

事務当番の際、ふと見上げると目に入る「天井と限界は突破するためにある」とマジックで殴り書きされたアレだ。熊野寮五十周年記念誌に犯人を発見した。

なにかを作ることもあれば壊すこともあった。そのうちひとつが事務室の天井である。自分の20歳の誕生日に合わせて事務室の泊番を買って出た私は、K木Jなどと大酒を飲んで楽しい気分になり机の上でジャンプしたところ、そこに運悪く天井があり、まるでマリオがブロックを壊すように簡単に穴が開いてしまった。仕方がないのでルーズリーフに油性ペンでドット柄を描いて貼ってカムフラージュしておいた。またその日は酒を飲み過ぎて黒電話にゲロを吐いた輩もいて翌日電話がつうじなくなり、各方面からこっぴどく怒られたものである。

熊野寮五十周年記念誌(上) K.N.(工学部)05年入寮 p. 116

 最初はルーズリーフにトラバーチン模様を描いてごまかしていたらしい。しかも、あの黒電話そんなことされていたのか。2000年頃のエピソードなので、宇治寮閉寮から35年もの隔たりがある。バンカラの精神が平成でも息づいていた。

トラバーチン模様 https://www.seed-sc.com/news/column/2238/

まとめ

 宇治寮が存在していたのは短い期間だが、生活の様子がよくわかった。七夕会はじめ、宇治寮の同窓生はご卒業後も結束は固いようだ。

 2006年2月10日(金)
 東京で宇治寮出身の同級生が集まった。

尾池和夫の記録(263) 京都大学メールマガジン 2006年8月から

 熊野寮一期生は、この宇治寮や東西の吉田寮から来られている方が多い。委員会制など、昔からの制度が熊野寮にも引き継がれていた。そして、破壊と再生が約30年周期で繰り返されていることが確認できた。話が変わるが、隠れキリシタンをかくまった長崎市の天福寺では数百年後に恩返しのお布施があった。いつか、そんな風に世代が変わっても元宇治寮の皆さんに感謝をお伝えできたら嬉しい。

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