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種々の思い出と
↑2008年4月6日、18:28 丸山公園の枝垂れ桜
独立した章で書ききれなかった思い出や、熊野寮五十周年記念誌での注目ポイントを紹介したい。
BMXサークルってあったよね
寮東側のグラウンド付近に、BMXサークルの活動場所があった。Bicycle Motocross(バイシクルモトクロス)の略で、かっこよく坂道をジャンプするアレだ。なぜか知らないが、西日本最大級の施設だったらしい。今は跡形もないのだけど。記念誌にも記載があった。
・C棟東側にあったジムの松下さんが育てていたレモンの樹。毎年たわわに実をつけていたが、BMXの敷地移転の際に整地に巻き込まれ引っこ抜かれる。ごめんなさい、松下さん。守れるのは私ぐらいしかいなかったのに。
事務の松下さんも懐かしい。
在寮当時の寮生大会で、寮外生が珍しく参加されていたのを覚えている。それがこのBMXサークルの方、おそらく代表だったかな。あの徹夜上等の大変な大会で、BMXサークルにとって貴重な活動の場であり、寮の施設を使わせてほしいとしっかり話されていた。2020年頃には自然消滅というかつながりはなくなり、近年はすっかり解体されたらしい。
五十周年記念誌にその痕跡がないか調べたところ、寮祭企画で何度か参加されていたようだ。
・2007年 9日目 BMX performance
・2008年 10日目 BMX
・2009年 10日目 みかん祭り+BMX performance
・2011年 10日目 BMX
・2012年 3日目 BMX同好会
・2013年 10日目 BMX
2016年以降の寮祭パンフをネットで確認したが、おそらく2013年が最後だ。ググると2008年7月7日のsunday afternoon bmx school#14 というイベントで写真が見つかった。ブログの画像を引用させていただく。
![](https://assets.st-note.com/img/1704717756261-Sp7vH7jpVn.png)
ジャングルのように鬱蒼とした空間だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1704717780822-t9UQhsMRL2.png?width=1200)
後ろはB棟かC棟とみられる。
![](https://assets.st-note.com/img/1704717724910-Id2CEPW9Us.png?width=1200)
こうしてみると結構人が集まっていた。西京極のBMX SHOP HANGOUT の2011年のブログにこうあった。
![](https://assets.st-note.com/img/1704718071524-azwVhEuJ7C.png)
2011年05月19日11:15
京都ローカルパーク
最近ローカルパークのコンディションがとても悪い状態ですので~
集まったメンバーで修復をしていますが、ソロソロ限界のセクションも多数です!
2011年にはかなり状態が悪くなっていたようだ。京都ローカルパークって名前だったのか。ルールを整備して管理されていたのはBMX SHOP HANGOUTのオーナーの中村辰司さんらしい。その息子さんの中村輪夢さんは2002年京都市生まれで2~3歳からBMXをされており、世界トップクラスのBMXライダーをされている。ひょっとしたら、小さいころ熊野寮でも練習されていたかも?
寮の外とのかかわりが少なかった時代、「熊野寮ってこういう使い方もしていいんだ」と、価値観に少しだけ風穴を開けてくれた。2018年頃には向日町競輪場にBMXパークが出来たらしく、寮の東にあった京都ローカルパークの役割は終わったのかもしれない。寮外連携局のまだなかった当時から、寮の外との交渉や管理など進めてくれた寮生の皆様、素晴らしい活動をありがとう。
バハァドルさんとC棟の開拓
バハァドルさんは私が在寮時もご健在で、事務室で新聞を読んでいる謎の外国人というイメージしかなかった。実は、アフガニスタンから来られた、工業化学科の博士課程研究生だったそうだ。アフガニスタンの内戦のため、大使館が閉鎖されパスポートも切れ、実質的に難民だった。教育学部山崎さんによる署名活動のサイトが今も残っている。
バハァドルさんは1955年にアフガニスタンで生まれました。家族は昔30人。兄弟は他に5人いました。現在は戦争状況によりどうなったかはわかりません。父母と11人の家族が既に殺害されています。
彼は1974年8月にJICAの研修員として一年の予定で日本に入国しました。研究対象はセラミックエンジニアです。
彼の突然の逮捕に対して、当時副学長の尾池さんと2002年2月13日に団体交渉し、法務大臣へ署名つき抗議文書を送ったことがあるらしい。
国会図書館で検索すると、確かに平成5年7月発行「光化学」1993 vol. 17のp. 106に「サンダル・カーン・バハァドル」のお名前がある。住所は「京大熊野寮ビル内バハァドル研究施設オフィースB-311号室」とある。
亡くなられたのは2011年頃だったかと思うが、その時にたまたま石山寺での初詣警備バイトで一緒になった寮生が、最期のお世話をされた一人だ。曰く、葬儀費用を彼の口座から引き出そうにも、身寄りのない人に銀行が許可を与えてくれない。なので、弁護士を頼って何とかされたそうだ。弁護士の方はその思いに感動してほぼタダみたいな値段で引き受けてくれたと聞いた。そのあとは五十周年記念誌(上)の記事にあるように、土葬されて日本の地に眠っていらっしゃる。
正直、当時はC棟1Fを新聞や缶詰など異常な物量で占拠する困った方というイメージが強い。おかげで、当時C12ブロックは人数が少なくて当番など大変そうだったイメージがある。ただ、裁判資料になるからという理由でため込んでいたらしい。片付けで缶詰を開けた寮生曰く、砂の味だったようだが。その後、C棟1Fは文字通り開拓されて収容人数の上限拡大に大きく貢献した。この作業は相当大変だったはずで、日数と時間とお金がかかったことだろう。葬儀、手続き、片付け、これらを頑張った寮生をたたえたい。バハァドルさんの安らかな眠りを祈る。
大衆酒場「あけぼの」
大衆酒場あけぼのは2017年8月26日に閉店した。住所は京都府京都市左京区岡崎徳成町15、川端警察署のはす向かいにあった。一度か二度、在寮中に訪れたと思う。B棟の先輩が、安いし寮生ならおススメだと教えてくれた。記念誌を読んで、こんなに古くから寮生に愛された名店だったとは初めて知った。
とりわけ寮生のたまり場、憩いの場であった川端警察署の筋向えの居酒屋「あけぼの」での談論風発は、本当に思い出深いものです。当時は、お婆さんとお母さんといったん嫁いで帰ってきた子連れの娘さんのお三方がカウンターでてきぱきと酒と肴を振舞っており、女3世代のたくましい居酒屋でした。
そのほかに寮生の娯楽と言えば「あけぼの」です。貧乏学生のためにあるような飲み屋です。居室の中の小銭を探しては通いました。
その頃は、自動販売機でビールが買えた。家庭教師の後だといって、バスで途中下車した寮外の友人や寮生が部屋で数人集まるとポリバケツにあるだけの硬貨をもち、B棟103だったので、東側のテニスコートの入り口からでて、門をよじ登り、ビールを買い、そのついでに、一平ラーメンにチャーシューとゆで卵、もやしを分けてもらい、よく宴会をしたものだ。あけぼので飲んだ後、飲みなおした場合も多かった。いろいろと思い出があるのでどうしても記しておきたい。
居酒屋「あけぼの」は、熊野寮とは昔からの付き合いだ。
東大路を二条のすぐ手前まで下がった東側にある、一件の小さな飲み屋。入ると古びた店の中には15席ほどのカウンターがある。ちょっと見渡せば、たいてい寮生の姿を見つけることができるはずだ。もしいなくても、奥の座敷にいるかもしれない。15畳ほどの部屋に座卓がいくつか置いてある。
くまつう p.130「私の好きな店」1996年6月号掲載
また原稿を寄稿してくれた森栄徹さんが寮近くのあけぼので飲んでいた時、偶然私たちが編集会議をしていた日で、森栄さんが三八年ぶりに熊野寮を再訪する場面に中原さん、鈴木君とともに立ち会いました
三代にわたって続き、吉田寮や熊野寮はじめいろんな方に愛されたお店だった。
自由寮の三高地蔵
聖護院のとなり積善院凖提堂(五大力さん)で祀られている三高地蔵は由来がある。2023年5月の京都大学新聞の記事にはこうある。
また、三高地蔵が地域で祀られるようになった経緯について、第三高等学校の学生が「学園祭で多くの地蔵を赤フンに裸で担ぎワッショイワッショイと円を描き踊り楽しんだ後、地蔵は運動場の片隅に放置」されていたので、「時の長老がこれは気の毒と相談の上、一体を町内の守りにとお祭りすることとなった」という、衝撃的なエピソードが語られている。
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すげー罰当たりなエピソードが地元には伝わっている。しかしいっぽう、三高八十年回顧によると記事とは由来がまた異なるようだ。
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二体並んでいるうちの小さい方は寮北三の地下から掘り出され、小使室南西隅にお金を出して作った祠に祀っていた。室戸台風による自由寮倒壊跡、二本松住民によって勧進され、当時のプール横の十軒長屋(あだ名が三十三間堂)に置かるようになった。と、ここまではありそうな話のようだが、この地蔵にはこれから記載するような前日譚がある。
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地下から出てきたというのは噂の尾ひれ背びれで、実際は紀念祭で使う地蔵を吉田本町の石屋に頼んで作ってもらったら、取戻しに来ないのでそのうち苔むして、気づいたら花や水やら添えられだして「地下から掘り出された夜泣き地蔵」などと因縁がつき、勧進帳まで作られたということらしい。そういえば藤原道長の桜塚も、絹糸紡績曰く墓でなく塚だった。時代を経て口伝が伝わるうちに、次第に墓とされだしたのかもしれない。
地元で伝わっていた「三高生が祭りでわっしょいした後捨てられてた」エピソードと、三高回顧誌に伝わる「実は三高生が近所の石屋に作ってもらった」エピソード、どちらが正しいのだろう。はたまた別の地蔵なのだろうか。同一の地蔵で、どちらのエピソードも正しい可能性もある。うーん、気になる。そのうち、ビッグテンの前の道路のタイルでハート形が描かれているのも、尾ひれ背びれがついたりするんだろうか。2008年頃工事されたの職人さんの遊び心だと思うけど。
徳力版画館
70年代のこんな広告を発見した。熊野寮のすぐ南西だ。
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京都徳力版画館は徳力富吉郎という有名版画家の作品を展示してるらしいぞ。
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踏水会
熊野寮のすぐ西にあるスイミングスクールだ。古風な名前だと思っていたが、かなり歴史がある。琵琶湖疏水夷川ダムで泳いでいた時期もあったらしい。京都市水道局の琵琶湖疏水記念館のデジタルアーカイブに 昭和36~37(1961~62)年頃の写真が残されている。
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昭和30年代後半の夷川船溜です。この頃から、徐々に水質の悪化が問題になり、雨が降ると水は土色に濁り、また夏になると大量に発生する藻に苦労したといわれています。それでも、多くの人がこの場所で水泳を楽しんでいました。
この写真は60年代前半なので熊野寮が出来る前、京大教育学部熊野校舎があったはずだ。左奥の方に見えるような気がする。
三谷伸銅所
疏水の北に面し、琵琶湖疏水事務所の西側にあった工場だ。熊野寮から見て南西側だ。
夷川船溜で水車を用いて精米、製粉や起毛を行っていた三谷卯三郎は、1916年 に夷川船溜北側に三谷伸銅を創業、蹴上発電所からの電力と夷川船溜から引水を用いてきました。
最初は水車に始まり、夷川ダムの水力発電を利用した工場だったらしく、本社サイトに当時のものと思しき写真が残っていた。
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公式サイトには「明治時代には琵琶湖疎水による日本最初の商業用水力発電所の電力を利用した近代工場をいち早く建設」とある。立命館オーバレイマップによると、1922(大正11)年には存在が確認できる。
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岡崎付近にあった水車跡は水車(三谷)稲荷として残されている。
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唐十郎
記念誌でお名前をよくみかける、唐十郎って誰だ。60年代に全国でテント公演をされていた反逆の舞台作家らしい。寺山修司と一緒に逮捕されている。京大的文化辞典 p. 85 に、西部講堂にも来たことがあると記載されている。
紛争のためほとんどの講義が休講となったのを幸い、アルバイトでためた金を使って東京へ行き、高校時代の同級生の下宿に寝泊まりさせてもらいながら、新宿や渋谷でジャズ・ライブを聴いたり、〈アングラ演劇〉とよばれた前衛的・実験的な演劇活動をしていた寺山修司の「天井座敷」や唐十郎の「状況劇場」の芝居を観てまわったりした。
当時宋さんは入菅前での外国人登録証焼き捨てパフォーマンスでその筋では知られた存在だった(新宿の花園神社を拠点としていた状況劇場(紅テント)の唐十郎や李麗仙も彼をモチーフとした演劇を上演していたはずだ)。
この唐十郎が熊野寮にも来ていたことが国会図書館の書籍で確認できた。
![](https://assets.st-note.com/img/1704805889580-nh2S2QhkEn.png)
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そういえば、朝日ジャーナルの取材で寺山修司が京大に来たことがあるらしいと五十周年記念誌に記載があった(上巻 p. 206)。唐十郎の舞台公演と寺山の取材、どっちが先かわからないが、どちらかが西部講堂や熊野寮なら公演できると気付いたのだろう。表現の場が限られた社会でも、場所を与えられるのは素晴らしい。内容はわからないけど。
ジャズ
先ほどの藤森さんの投稿が1969年のジャズ雑誌にあった。当時気鋭の山下洋輔について褒めてらっしゃる。唐十郎と同時代に活躍したジャズピアニストだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1704808077350-z6sxVObTfd.png)
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この雑誌に定期的に投稿されていたようだ。
スイングジャーナル誌で「寮の前の屋台のラーメン」について記者側から言及がある。
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ジャズ評論家・久保田高司がお答えします。
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![](https://assets.st-note.com/img/1704808282150-Z75EXtIW5t.png)
この方も寮生もしくはお近くにお住まいだったのだろうか。この「寮の前の屋台のラーメン」とは、おそらく一平ラーメンのことだ。
屋台「一平ラーメン」
何年から始めたのかは記憶が定かでないが、寮のテニスコートのところにあった開かずの門のそばで、屋台のラーメンがあった。私が寮に住みだしたころに営業していたのは一平ラーメンである。お世話になった人も多いと思う。
東のグラウンドのあたりだ。昔はテニスコートだったらしい、私の時はフットサルコートと呼ばれていた。70年代、あそこら辺にラーメン屋台があった。
在寮中に火事で焼けたのだが、熊野寮の北側にラーメンの屋台が営業していて、深夜の時間帯まで遊ぶので随分お世話になった。かんじのよい男性二人がやっておられた。
残念ながら屋台は放火され焼失したらしい。
残念なことに、81年か82年の冬に屋台が放火され、その場所での屋台の営業はできなくなったようである。二人は中華料理屋で働きながら、お金を貯めて、十年後、福岡市の六本松で、鉄板焼き「一平」というカウンターで7~8人しか座れない小さい店を出した。
その後、福岡に移転された。
元熊野寮生が出張の時に来てくれると喜んでいた。寮生のつながりを感じて、いい話だと思ったことがある。
ところが、名前の元になったであろう一平さんは亡くなられていた。2000年代前半と思われる。
一平さんに十年位前肝臓がんが見つかり、闘病生活に入り、数年後に亡くなった。出張の際に、見舞いに行ったときには、熊野寮のそばで屋台をやっていたころが一番楽しかったといわれ、胸が熱くなった。一平さんと中川君の出会いのころなど知らない話もたくさん聞いた。ご冥福をお祈りする。
悲しいが、移転後も追っておられた元寮生のかたの愛情が並々ならぬものがある。
今は中川君が週5日、一人でお店を出している。近くのスナックのママさんがひいきにしていて、何とか続いているようである。
中川さんの方は2014年頃まだお元気なようだ。移転したり退寮したあとも、つながりを保っていらっしゃる。
山田さん
2007年頃、猫の山田さんがA3(A棟3階)にいた。栄養士の長谷川さんにばれたらまずいかもしれないので、巧妙に存在を隠すため人のような名前が付けられた。
・A3の山田さん。「山田さんどこー?」「ここにいますよー」。山田さんは猫。鼠は獲らない主義。
更によく見ると、寝転んでいる人の隣で、灰色と黒のしましまの猫が丸くなっている。そうだ、この猫は、ついこの間、うちに引っ越してきたのだった。名前は山田さんというのだ。
「酒田さーん」
二段ベッドの上から猫を眺めていると、どこかからオン何個の声が聞こえて、気が付くと、部屋の床の上で、みんなでビールを飲んでいた。山田さんは、ガサガサという音がするポテトチップスの袋を、部屋の隅まで追いつめている。
山田さんはビニール袋をガサガサするのが好きだった。一度、朝起きたら鍵のない私の部屋に入ってきており、ニャーニャー鳴いていた記憶がある。確か、ケガをして退寮された。
歌に詠まれる熊野寮
なぜか短歌に詠まれとる。
夏休みに入りし京大熊野寮夜更けてマイクに呼び出す声のす
なぐり書きのアジ看板も今は無く京大熊野寮車並べり
北海道俳句協会会員・現代俳句協会会員の高橋あや子さんかと思われるが、どういうつながりなのかは分からなかった。
アミガサタケ
なぜか熊野寮構内でキノコがとれるらしい。
四月四日
紅と二人で、京大熊野寮にもぐりこみ、例年のごとくアミガサタケをさがした。今年は去年ほどではないが、それでも二十本ほどあり、かなり大きい。このキノコは、バターいためで食べるのが一番おいしい。永田がいないのが残念。
永田って誰だよと思って調べると、歌人兼研究者の方が京大広報に出てきた。
熊野寮の空き地には,今でもアミガサタケが出ているだろうか。西洋ではセップと呼ばれて食菌の王とされている。バター炒めでワインと一緒に食すれば,天国である。
アエラにも記事がある。
熊野寮のそばには、アミガサタケが生えていました。バターで炒めてワインと一緒に食する。なんともいえないひとときを堪能したものです。
今回調査した中で、最も意味が分からなかった。そんなにキノコあったっけ?著者に関してググりまくったら、永田和弘さんは理学部ご出身で、京大短歌会のご所属だったようだ。そして同じ京大短歌会に永田紅さんがご所属されていた。この方は永田和弘さんの娘さんだ。そして永田紅さんの母親、永田和弘さんの奥様が、最初に記載した歌人河野裕子さんである。紅さんのお兄さんも含めて、全員歌人の短歌一家だ。アエラの記事によると、書籍『あの胸が岬のように遠かった』はNHKでドラマ化もされたらしい。残念ながら、2010年に河野裕子さんは亡くなっている。熊野寮構内で、アミガサタケを見つけたら思い出してみて欲しい。
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