KANITSU

【蟹通(かに-つう)】は、かつての広告大手。
1914年北海道函館市にて創業。のち東京都千代田区に移転した。

日魯漁業(マルハニチロの源流企業)が1913年に衛生缶を使用した「あけぼの印」の缶詰生産を開始した際、日魯漁業創業者の一人である堤清六がカニ缶に広告を入れることを発案し、子会社「日魯蟹通信社」として設立された。

広告入りのカニ缶は廉価で販売され、庶民も北洋漁業発展の果実を得ることができた。現代の「アフォーダブル・ラグジュアリー」に通底するマーケティングは、当時勃興しつつあった日本の中産階級への訴求に最適であると判断され、カニ缶広告の需要を押し上げた。

1915年からの大戦景気は、カニ缶の需要と日魯蟹通の業績を飛躍的に高め、日本橋高島屋が出稿した「全國旨ひもの大博覧會」のカニ缶広告「風味絶佳 其将如蟹(ふうみぜっかにして、それまさにかにのごとし)」は大正期の傑作コピーとして人口に膾炙した。
余談だが、1939年にオグルヴィ&メイザーが「32の優れた広告の基本ルール」を社員に提示した際、「ニチロカニツー。あるいは彼らのカニ脚のように柔軟な発想」という一項を入れるか入れないかで同社が分裂寸前になったことは有名である。

日本が戦争の時代を迎えると、兵士の糧食缶詰に「慰問広告」を入れ、戦地の将兵に憩いを与えた。慰問広告は、協賛企業が広告スペースの一部を「銃後の家族の声」や「人気女優の写真」「流行歌の歌詞付き譜面」などの娯楽として提供したものである。
しかし終戦に伴い慰問広告市場は霧消。さらに財閥解体により、蟹通は日魯漁業グループを離脱する。
この際「日魯」の冠が外され「蟹通」が正式社名となる。

戦後カニ缶広告の需要低下により放送広告に進出。
1960年代から、俳優・蟹江敬三を積極的に起用してカニにこだわった広告を志向する。
しかし、広告主の業態や製品を半ば無視した「蟹江敬三推し」「カニ推し」のクリエイティブ方針は独善的・非顧客主義であると非難され、森永製菓「エールチョコレート」(1967)の新発売時コンペでは指揮者の山本直純に敗北。「蟹江敬三の未来を奪う蟹通は『広告蟹工船』である」と揶揄された。

1979年頃に事業を停止したが、閉鎖登記や清算結了の資料がなく
その後の状況は長く不明であったが、2000年頃に活動実態があることが判明。当時業界紙「電通報」や「広告」で特集記事が掲載されるなどのインパクトを与えた。

1930年代には「東の電通・博報堂、西の大広・北の蟹」と呼ばれた名門は、現在はかに料理店としてその名を今に伝えている。

……というウソを考えながら事務所に戻ってきたのでメモ(長い)

※これは一年前にFacebookに書いた記事なのですが、くだらないので再掲しましたw

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