TRPG制作日記(157) デカメロン
高いところを目指してぐいぐいと登っていく人もいれば、もっと身近な生活を大切にして小さな気づきを作品の込める人もいます。前者はダンテ、彼の作品は『神曲』であり、主人公は詩人と淑女に導かれて、ぐいぐいと地獄から天国によじ登っていきます。
いっぽう、同じイタリアの作家でも、ボッカチオは全く異なる戦略をとりました。
彼の作品は『デカメロン』。
ダンテが神曲であるならば、ボッカチオは人曲です。今日は『デカメロン』について書いていきます。
ボッカチオは1313年にイタリアで生まれた作家です。対になるイタリアのダンテが1265年に生まれたので、ちょうど彼と入れ替わるようにして活動を始めたことになります。
ダンテの『神曲』は地獄から始まります。
主人公は詩人に出会い、そして彼の導きで地獄巡りを行います。そして、煉獄を超えて天国に至ります。
ダンテの物語には普遍的な構造があります。
そして、物語そのものも普遍性を目指しており、そして普遍的真理を獲得したところで物語は終了します。
そこには正しい人生は一つであり、そしてその正しい人生に至る道も一本であるという信念があります。
さらにいえば、七つの大罪、嫉妬や強欲、性愛などは乗り越えるべき人間の罪として考えられています。
私たちは動物的な存在から、それを排除していくことにより正しい人間になり天国に至るのです。
独身万歳、恋愛や結婚は悪です。
いっぽう、『デカメロン』は全体の構造から異なっています。
ダンテの『神曲』が地獄、煉獄、天国と美しい三部構成になっているのとは対照的に、ボッカチオの『デカメロン』は若者十名が、十日間に、それぞれ自分の物語を語るという構造になっています。
しかも、順番に特定の目的で構成されているというよりは、それぞれの登場人物が面白いと思った物語を寄せ集めたような構造で、しかも暇つぶしのために行うという設定です。
ダンテとは異なり、ボッカチオの『デカメロン』は魂の危機から出発するわけではありません。
そうではなくて、イタリアでペストが流行したので逃げる。逃げている間に暇なので、若者達が話をするという設定です。しかも、男性三人、女性七人と女性が含まれています。
ダンテが一人の人物が地獄から天国に昇る過程を描いているならば、ボッカチオはそれぞれの人物が自分と自分の物語を深めていく物語です。
主人公は語り手である十人がいて、テーマが決められていて、そのテーマに対して普遍的真理ではなくて自分が面白いと思った物語を語ります。そこにはたくさんの声があります。
『デカメロン』の目的は普遍性へ高めることではなくて、人間の深いところに潜っていくことです。
ダンテが天国という一つの目的に向かって進むのであれば、ボッカチオはペストという現実的な脅威から逃げるために、それぞれ登場人物達が自分達の人生をそれぞれの方向に旅立っていく印象です。
また『神曲』における、主人公、詩人、淑女は物語が存在していて、そこから役割が存在しているように思えます。
いっぽう、『神曲』とは対照的に、すなわち物語の役割こそがキャタクターであるのとは対照的に、『デカメロン』はそれぞれの登場人物の個性がキャタクターになっています。
物語よりも、キャタクターが先にあるのです。
『神曲』の神がイエス・キリストであるのにたいして、『デカメロン』で称えられる神は愛の神「アモーレ」です。ローマ教皇の膝元であるにもかかわらず、遺憾なことにボッカチオは多神教のようです。
しかも驚くべきことに、はじめにこの本ではペストに関する深刻な問題は扱いませんと書いてあります。『デカメロン』はたとえ世俗的であっても高尚な問題を扱う本ではないのです。
ダンテが神学者であるならば、ボッカチオは人文学者です。そして、ここで私たちは神や普遍的真理ではなく、まさに人間をテーマにした文学に遭遇することになります。
真理ではなくて、人間を描く。
神の視点から書くのではなく、人間の視点から書く。
それがボッカチオの文学です。
普遍的真理とは、あらゆる時代、あらゆる国、そしてあらゆる人々が共有している何かです。
しかし、それを追求することだけが文学ではありません。
ボッカチオは文学とは普遍的真理を求めるものではなく、まさに人間を描くものだとしたところに現代に至る道を開きました。
私たちは七百年後の二十世紀において、第二次世界大戦後、ダンテとボッカチオの対立を社会主義リアリズムとポストモダニズムに、大きな物語と小さな物語に見ることができます。
社会主義リアリズムにおいて、私たちは社会の現実(資本主義、煉獄)を読み取り、それを理解してダンテのように社会主義(天国)に昇っていかなくてはなりません。
いっぽう、ポストモダニズムにおいては、あらゆる文化活動は社会主義を実現するために存在するという考え方は危険だと判断します。
「社会主義は正義」という結論をあらかじめ決めておくのではなくて、また神の視点や普遍的な視点や歴史の視点で描くのではなくて、「私には世界はどのように見えるのか」、歴史の必然ではなく自分だけの小さな物語を追求するのがポストモダニズムです。
同じイタリアで、似た時代に生きたダンテとボッカチオは私たちに分かりやすい文学の態度を見せてくれます。
文学とは普遍的真理を求めることなのか、それとも人間を描くことなのかは難しい問いのように思えます。
そして、この二つの方向の鮮明な例がダンテとボッカチオです。
直感的には、普遍的真理に昇ることと、人間存在を深めることのバランスを取ることが重要に思えます。
物語と世界観がしっかりしていることが重要なのか、それともキャタクターが魅力的であることが重要なのか。
両方が必要です。大切なのはバランスに思えます。
ところが、これらの問題はまったく関係のない方向から不気味に解決されてしまいます。ラブレーが登場したのです。
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?