いなかった場所に抱くなつかしさ      暇刊!老年ナカノ日報⑩ 2019.1.5

メールで詩が届いた

今に至るまで、詩というものが苦手です。書けないのはもちろんですが、読むのが苦手なのです。散文を読んだり、うたを聞いたり、マンガを読んだりしているとしばしば、言葉にえぐり込まれたり断ち割られたり、引きずり回されたり飲み込まれたりといったことが起こるのですが、詩ではそういうことがめったに起こらない。ぼくは絵を見るのも造形を見るのも苦手ですが、詩を読む能力も欠如しているのだと思います。
友人のなかに詩を書く人も何人かいるのですが、残念なことにその詩に突き当たってしまうことがめったにない。詩を見せてもらったり、詩集や雑誌を送ってもらったりするたびに、身が縮むような思いをするわけです。

そんな古い友人の一人に水門隆(みなとたかし)という男がいます。これはペンネームで、ぼくは本名の方が呼びやすいのですが、今日は先日読んだ彼の詩について書くので、水門隆と呼ばせてもらいます。
20代の前半にはずいぶんと濃く付き合っていて、音楽(友部正人、ジョン・レノン、キング・クリムゾン…)マンガ(大島弓子、三原順…)文学(吉本隆明、中上健次…)などについてああだこうだと話すほか、将棋に麻雀にといろいろやってました。
彼が郷里に帰ってからはめったに会うこともなくなっていたのですが、ナカノ日報を送りはじめてしばらくしたら、家まで遊びに来てくれました。今でも詩は書いているが、印刷まではしていないようでした。それからまたしばらくそのままだったんですが、11月の下旬にメールが届きました。近況が少し書かれていて、続いて詩が書いてありました。「S57Blues」という詩です。全文紹介させていただきます。

S57Blues 水門隆

 法界院の学生アパートで
 誰も
 廊下のピンク電話に
 出ようとしないのは
 別に
 不吉だからではない
 
 月は三日月
 桜と男三人の安酒の会
 
 初デートで
 ドストエフスキーの
 よりによって
 地下生活者の手記を語ったあげく
 振られたとか
 どのセクトがしつこく
 デモに誘ってくるだとか
 互いに伸びた無精髭を
 撫でながら
 
 正月くらい
 帰らなかったのか
 
 バイトもあるし
 単位も落とした
 
 アレは
 その
 連絡いくのか
 親に
 留年というやつは
 
 一応
 中古のガットギターがあるが
 誰も弾かない
 大体
 弦が錆びている
 
 あの先輩の集会ダジャレが
 懐かしい
 「ここは法経なのに、ホーケーじゃない奴が紛れ込んでいる」
 「ホーケーなのに、ホーケーじゃない」
 「ホーケーじゃないのに、ホーケーだと叫んでいる!」
 
 吉本もフォイエルバッハももはや
 あきれて立ち去る他ないだろうが
 ただ
 舞い散りはじめた桜だけは
 廊下のさきに
 吹き溜まる
 
 我々は
 そのうち背を丸めて
 こたつ布団で眠るだろう
 何処からか寄り集まった
 迷い猫のように
 
 まだまだ夜は
 肌寒いのだ 

ぼくたちはたしかに

とりあえず、なつかしい。どうしようもない。このアパートや安酒の会にぼくはいなかったし、出てくる先輩はぼくではない。しかしぼくは確かにこの場所にいたんだと思えます。
いなかった場所にいたと思えるというのはどういうことでしょうか。その時代にいたということはあるかもしれないけど、それはあまり重要な点だとは思えない。ここで描かれている心象がぼくの肉感に迫ってくるということ、とか言ってみるんですが、うまく言えません。いつかは必ず、言葉でつかみ取りたいと思うことがらです。
 
別の話になるんですが、なつかしいということについて、こんなふうには言えないでしょうか。どんなことでも、終わりよりも始まりの方がすぐれている。過ぎてしまったものはすべて、始まりの方が終わりよりも、現在から遠くにあるから。
なつかしいという気持ちは後ろを向いていて、だからぼくたちはなつかしいものを後ろ向きのものだと考える。しかし未来に向いた渇望をロマンティシズムと呼んで過去を向いた渇望をセンチメンタリズムと呼ぶなら、その渇望の深さこそはいまここのぼくのいる場所と、ぼくが行きたいと願う場所の落差の深さであり、それが未来を向いているか過去を向いているかということは何も関係ないんだと言ってしまいます。行きたい場所への渇望がすべて、今いる場所とたどり着きたい場所との落差や遠さがすべてなんだ。
 
津山市にうたをうたっている吉田省吾という人がいて、詩の朗読の会を開いています。そこに出かけて行って、若い人たちの前でこの詩を読んで聞いてもらったら、その人たちの一人は「自分が知らない時代のことなのに、この場所に戻りたいと思った」と言ってくれました。その時代を共有していないぼくと彼がおなじ場所に戻りたいと思う、それはつまり、一人のぼくではなくてぼくとぼくたち、ぼくとどこかのだれかであるぼくたち、ぼくとぼくが知らない者であるぼくたちが、同じ一つの場所に焦がれていること、同じ落差を見上げるだかのぞき込むだかしていることだと思えるわけです。
 
それともう一つ、まるっきり個人的なことになるんですが、水門隆がこの詩をメールで送ってくれたこと、それも添付ファイルではなくメール本文にベタ打ちで送ってくれたことが、ぼくはとてもうれしかった。この詩が一人ぼくにだけ語りかけている。その詩はまた、僕以外の人にも語りかけることができるだけの広がりと深さを持っている。ずっと昔から知っていて、今ではあまり会うこともなくなった友だちが、とぎれとぎれかも知れないけど書くことをやめられないでいて、書くときに僕のことを思い出してくれている、ぼくはそんなことを考えて、胸が熱くなる思いをしているわけです。