何気ない言葉の向こうにあるもの(良元優作のこと)                  暇刊!老年ナカノ日報③ 2018.6.10


君がしょんぼりと歩いているのを見たら、その人は後ろから君の肩をたたくだろう。それとも並んで歩くかもしれないし、何も言わずに見送るだけかもしれない。確かに言えるのは、その人がしばらくの間、君のことを考えるだろうということだ。

「ゆうれい」

2012年5月5日の春一番の後半、客席の間に作られた特設のステージの前に、何人もの客がぞろぞろ集まって来ました。全体の客層の中では若い部類の人たちです。人気がある人が出るんだなと思っているうちに、集まってきた客よりもさらに若い男が一人、丸顔のギタリストと一緒にステージに上がりました。どう表現したらいいのかわからない独特の声で、うたい始めたのが良元優作でした。
ぼくは良元優作という名前を聞くのもその時が初めてで、曲名も曲順も頭には入らなかったのですが、yumiという人のブログを参照させてもらうと、当日演奏されたのは「風につらつら」「ゆうれい」「石」「満月の手紙」の4曲です。その2曲目「ゆうれい」という曲に、ぼくは完全にやられてしまいました。
 
それは彼が見た夢のことをうたった曲です。夢の中で彼は交通事故で死に、家族恋しさで成仏できず、血だらけで眼玉が飛び出した姿で奥さんや子供さんについてスーパーへ買い物に行く。ゆうれいになって他人には見えない彼の姿が奥さんには見えていて、彼に話しかけてくるのだが、周囲からは独り言を言い続けているようにしか見えない。それが彼には気がかりでいけないのだが、奥さんは気にしない。一方彼は自分の姿が気になってならず、奥さんに「俺の顔変か」と繰り返して聞く。「するとお前は優しく/血だらけの俺の顔を触って/変じゃないよ変じゃないよ全然」
 
これほど素直に相手を恋い慕ううたを、ぼくは聞いたことがありません。自分がどんなに変わろうと、他人が目をそらすようなものになってしまおうと、あるがままのものとして自分を見てくれる人へのまっすぐな思慕。それはまた、その人のことをそのような存在として信じているということの告白でもある。並んで歩けばそれだけで満たされる、その人が去っていくかもしれないことへの言いようのない不安と、それを考えた時のさびしさ。今は間違いなくそばにいてくれることを信じられた時の大きなやすらぎ。
頭の中をうたう声が繰り返し駆けめぐりました。けっこう情けない記憶力しかないぼくの頭が、その日のうちには、その歌詞をほとんど完全に覚えてしまっていたのです。

「帰り道」

翌日岡山へ帰ってぼくは、ネットで「良元優作」と「ゆうれい」を検索しました。「ゆうれい」の動画や歌詞は見つからなかったけど、同名のDVDが出ていることがわかりました。(今は売り切れています)
もう一つ惹きつけられたのが「帰り道」の動画でした。何年か前、場所は同じ春一番のステージで、帽子をかぶった良元優作はボディの削れたギターを抱えてうたっている。その画面が夕暮れを感じさせ、そこにいたわけでもないぼくを、どうしようもなく懐かしい気持ちにしてくれます。小さい子供が一人で遊んでいるうしろ姿を見ている時のような、さびしくて懐かしい気持ち。
この動画が好きな人はずいぶん多いようで、その当時の再生回数が1万回ほど、6年ほどたった今では4万回に近づいています。その人たちもきっと、この懐かしい気持ちを感じているのだと思う。ではそれはどこから来るのか。
野外ステージ特有の空気感とか光線の加減とかいろいろあるだろうけど、それはやはり、彼のうた全体からやってくるのだと思います。声とかメロディとかギターの音とか歌詞とかリズムとかうたっている姿とか。こんなことを書いてみても何を言ったことにもなりませんが、それを何とかして自分の言葉としてつかみたい。いつかそれができればと思いながら、こうして文字を連ねているわけです。

意味ありげなところがなさすぎる

うまく言えないのですが、彼のうたはわかるようでわかりにくい。言葉が極端に省略されていて、意味自体がわからない部分がある。「へたくそでいいからうたが聞きたい」ってわかりますか?
「うた」の前に「まともな言葉の」が入るんだそうです。「満月の手紙」という曲の中に「月が君に重なって見えた」という歌詞があり、ぼくは大好きなのですが、この「君」は遠くにいる友達のことらしい。当然、好きだった女の人のことだと思ってました。言われてみるとああそうかと思うわけですが、言われなくてもそう伝わっている気もします。じゃあ、その言葉は、足りているのかいないのか。
もう一つ、本当はもっとわかりにくいのは、何をうたおうとして作っているのかがつかみにくい曲が、特に最近の曲にたくさんあることです。意味ありげなところがなさすぎるというか。家族や友人との少しねじれた会話をうたう「叙々苑」や、時間に遅れそうになって焦っている最中に街角で父親に出会う「道間違える」とか、本当に面白いんだけど、普通に言う「いい曲」からは外れている。タクシーを降りて家に着いたら奥さんに「あんた、傘は?」と問い詰められる「餃子くさいおっちゃん」とか。
 
ところでたぶん2009年に、ふなばしさんという人が良元優作にインタビューをした記事が、ネット上にあります。「Interview with 良元優作 現代フォークの新たな潮流」で検索してみてください。良元優作はここで「自身で体験したことを歌にしたい」「今はそういったことをしないと、腹の底から歌えないと思っています」と言っています。これを読むと急にわかってくる気がするんですが、彼は自分の生活とうたとを、まったく同次元のものとして展開しようとしているんじゃないでしょうか。
ぼくたちはいちいち何かを説明しながら生きていません。その人が何のために何をしようとしているかとかは最終的に他人にはわからない、わかるわけがないものなのだろうと思います。どんな人であれ、ぼくたちはその人の姿すべてを見ているわけではないし、その人のすべてを理解しようなどとしていない。そこにいるその人と付き合っているだけである。ぼくたちは特に理由など示すことなく(示すこともできず)生きている、それと同じように、うたも理由を示すこともなく存在している。やはりうまく言えないけど、そんなふうに思えます。
 
うたが本当にありのままで切実なものであろうとすれば、それは時として他人に説明できない、言葉足らずなものであるしかない場合がある。伝わらなかったり間違って伝わったりするかもしれなくても、言葉少なにしか語れない場合がある。それは僕たちが他人の中で生きていて、誤解されるのはわかっていても黙り込んでいるしか仕方なかったり、一生懸命語ってみてもどうしても気持ちが伝わらない時があることと対応している。ただそんな時、意味も理由も伝わらなくても、その人がそこでそうしていること自体は納得できてしまうことがあります。良元優作のうたは、ときどきそのようにして聞く者に触れてくるのではないかと思います。

「マミー」

まだCDになっていない曲の一つに「マミー」があります。母親への思いをうたった曲なのですが、その中に「お母ちゃん兄貴はガンじゃないよ/お母ちゃん兄貴に借金なんかないよ/お母ちゃん薬は合えへんかったら/おかあちゃん飲めへんかってもええよ」という部分があります。(最近は「お母ちゃん」を「おふくろ」に変えてうたっていますが、最初に聞いた「お母ちゃん」の方がなじみ深いのでこう書かせてもらいました)
お兄さんの一人が死んでしまったということを聞いているので、この「兄貴」はそのお兄さんのことではと想像してしまうのですが、ならこの言葉の奥にはとても哀しいいたわりがある。同じ悲しみをあじわってしまう者として、母親にはそのことを伝えたくない。知らせなくていいし、合わない薬なら飲まなくていい。つらい思いや苦しい思いを、いまさせたくはない。理屈はどうであるにしても、そう思ってしまう気持ちの中にはどうしようもない優しさといたわりがあります。
母親にまつわるありきたりな(悪い意味じゃなくて)思い出話の中から、ふいにこの歌詞はあらわれて来ます。のんきなままで、平凡なままで、幸せなままで生きることができていいはずなのに、そうはさせてくれないという。そんな傷付いている、悲しんでいるものに対する嘆きといたわりを、ぼくたちはこのうたの中に聞いているんだと思います。

「へたくそな唄」

良元優作は、当たり前のことしかうたいません。いつかあったことや、夢で見たこと、眠れずに考えたこと。それはまるで、友達の部屋で、脈絡のないよもやま話を、ぼそぼそと聞くような経験です。なにげなくて、つまりありのままの話を聞くうちに、何か一言か二言、ぼくたちの胸の中に入り込んでくる言葉がある。すべてありのまましかうたわない人が、ぼくたちに何かを呼びかけてくれるなら、それは確かに、ぼくたちへ語りかける何かなのでしょう。
「へたくそな唄」の中で彼は「さあ行こうこんな雨/さあ行こうたいしたことない」とうたいます。この「さあ行こう」は自分に言っている言葉なのかもしれないが、ぼくには、聞くものに対する呼びかけのように聞こえます。その前の部分には「とられるもんなんか何もないから/鍵は開けっ放しでゆくよ」とあります。それが僕には「勝手に入ってくれてていい」と言ってくれているように聞こえます。
 
ぼくたちがしょんぼりとして、街じゅう歩き回っても知っている誰にも会うこともできず、かといって誰もいない自分の家になど帰りたくないとき、ぼくたちはそこへ行くことができる。部屋には誰もいないかもしれないけど、ぼくたちはそこで、彼の帰りを待つことができる。このうたを聞くと、ぼくはそういう気持ちになるわけです。