どんな世界に生きるか、という問い     暇刊!老年ナカノ日報⑨ 2018.11.25

地獄耳じゃなかった

もう今ではすっかり耳が遠くなり、何度も「えっ?何?」と聞き返す世話のやける存在となったわたくしですが、その兆候を自覚したのは十数年前です。人の言うことが時々聞き取れなくて、しかし偉いもんで自分の悪口はよく聞こえる、これが世にいう地獄耳であるか、と友達に言っていたら、そいついわく「そりゃ中野さん、地獄耳じゃないで」。続けて彼は言いました。「悪口しか聞こえんのじゃのうて、あんたのことはみんな、悪口しか言ようらんということじゃが」
 
……そうだったのか。
 
人のふり見て我がふり直せ、いや違った、自分の姿は自分では見えないのであります。視点を変えろ。セルフイメージを捨てよ。「人は見えたとおりのものでしかない」
それ以来わたくしは、その友達を心の師としてあがめ、呪っております。

背後に立ち、つかさどる者

あるとき、また別の友達と飲みながらぼくはこんなことを言っていました。「わしは亭主関白での、ニョウボにはわしの前を歩かせたりせん、いつもわしが前を歩くんじゃ」うんぬんかんぬん。もちろんこれ自体大ウソであって、まあ見栄をはっていたんですね。するとそいつがこういうわけです。「中野さん、犬を散歩させたことありますか」
以前にも書きましたが、うちの家にも犬がいました。散歩もさせておりました。そう答えると「犬、どっちを歩いてる、前か後か」と言うわけです。
こんちくしょうと思いましたね。それで「それは犬の散歩の話じゃ」と反撃したんですが、今度は「あんた、猿回し見たことありますか」というて来ました。こいつの魂胆はわかった、わかったけど答えんわけにはいかない。ので「ある」と答えました。そいつは「前におるのはどっちじゃ、猿か人間か」と言うて身を乗り出しました。
反撃せんといけない。「動物と人間ならそうじゃけど」というたら、そいつは勝ち誇って言いました「あんた、二人羽織見たことありますか」。
「今日の酒は苦い」と思ったわけです。

恥の多い人生を送ってきました

思えば高校生の時、当時は流通していた「紅玉=こうぎょく」というリンゴのことをベニダマと呼んで以来、さまざまの恥をかいてきました。多くの場合、無知ゆえに愚かな発言をし、くだらんプライドのためそれを糊塗しようとして恥の上塗りをするというパターンです。それらをこの場ですべてさらけ出し、ネタにすることができれば、読んでくださる方にはとんだご迷惑(アホらしいから読まんか)でしょうが、自分にとっては代えがたい苦難となるのだと思います。残念ながらそれだけの肝っ玉がありません。どころか、思い出そうとしてもその多くを今や忘れてしまっている(!!!)。こりゃダメじゃ、と思い知るしかありませんね。

ここに立ち止まっている理由

ところで、もともとはこの後、何かを書いて伝えたいというのはどういうことなのかを書きたいと思っていました。捨てるのも少し惜しい(ケチだ)ので書くと、書くときの気持ちの中には、読んでくれるだろう誰それのことがあるのだけど、それだけじゃない。まだ出会えていない人の中に、この文章を読んで喜んでくれる人がいるんじゃないか、その未知の誰かに会おうとしたら、いわば虚空に対して言葉を発信していくしかない…とかそんなことを書こうとしていたわけです。
 
そうしたら開高健の「ピカソはほんまに天才か」という本の「毛利武士郎」という文章にぶつかりました。開高が毛利武士郎という彫刻家を訪ねて話を聞いたときの話なんですが、お互い口下手どうしで話がはずまない。いま彫刻をつくろうとする人は、作品と受け手との間にどんな回路を見出そうとしているのか等と聞きながら、この問いでは答えにたどり着けないだろうともがいている。
そのうち同行の写真家が作品を撮影しようとすると、毛利氏は「ああ、いかんなア、背景(バック)がこんなところじゃあ、いかんなア、弱ったなア……」と、うろたえはじめます。微細電波を受信した開高がある作品を指さして「……この作品はどんな部屋におけばいいんでしょうか?」と尋ねると毛利氏は「そうなんですよ、そこなんですよ、自分でそれがわからないんです」と言う。「つまり施主(オーナー)のない空間というやつなんで、ぼくが勝手に頭の中で夢想して作ってるわけなもんですから、これをおく部屋があるのかないのか、そんなことは…」と困り切ってしまいます。
それを見て開高は、小説家が「どんな読者を期待するか」と問われたと同じだと感じ、同じ苦しみを彼が味わっていると心打たれます。「苦しむことは誰にもできることではあるまい。彼は解答を持たぬ特権者である」
 
ぼくに果たして苦しむことができているかというのはおいといて、大風呂敷を広げてみます。それはつまり、自分が生きたいのはどんな世界か理解できないままに、その世界で生きるにふさわしい自分であろうとし続ける行為だと思います。あらずもがなの付け足しかもしれませんが、自分が忘れないために書いておきます。