もう一度「はみだしっ子」を読む

(以下は、10年近く前に書いて「掌」という現代語歌の雑誌にのせていただいた文章です。愛着があり、誰かに読んでもらいたいという気持ちがなくならないので、投稿します。感想がいただければうれしいです)

あなたは、「はみだしっ子」という漫画を読んだことがあるだろうか。三原順が70年代中盤から80年代初めにかけて作り出した、コミックス13巻にわたる伏線に満ちた稠密な物語である。歪んで傷ついている心は、癒されようとしないことを自分の支えとするが、歪んだ心が自己を治癒することはそもそも可能なのかといった事柄、また、自分は自分を維持しようという機制なしに他者と接することができないのに、他者には無私と公正と求めてしまう、そのような自分に何かを行う資格があるのかといった事柄について考え続けた物語である。みなさんが全13巻を読んでくれればと思うし、僕がこれから書いてみようとしている疑問について、みなさんが一緒に考えてくれればうれしいと思う。

人間の心というものは、よほどの間違いでもない限り、まっすぐに伸びていくことはない。それは誰にも予測のつかない出来事によって、予測の出来ない方向にねじまがってしまう。そしてねじまがった心をまっすぐに矯正する方法はない。いや、あるのかもしれないが、ねじまがってしまった心は自分の姿を他人に隠そうとするから、また、心というものは外から見ることはできないから、それが矯正されることは実質的にありえない。ところで自分にとって何が最も自分であるかといえば、そのねじまがってしまった部分、ねじくれてこぶのように固まった部分にほかならない。なぜなら、そのこぶこそが、外力にひしがれながら自分を支えた部分だからだ。主人公である少年グレアムは、多分そのようなことを考えている。
またグレアムは、このようなことも考えている。ねじくれたこぶが自分にとっての自分であるにしても、それは他人にとっては醜悪なものであることは間違いない。まして他人に見せたからといって、それはしょせん修正不能なものなのだから(でなければ、触れられることが耐えられないほど痛いままのものだから)、無益であり、他人に対して無作法である。そのようなものはすべて押し隠して生きていくよう自分を持ちこたえることが、人間として選ぶべき価値だ。
そしてこの考えは、ある場合にはこういうところへ行き着く。自分にとっての自分とは、自分の中にある「他者に示すべきでないもの」の総体であり、しかもそれは、自分の意志一つで永久に他人に知られることなしにすむものである。言い換えれば自分が負う義務は、真の自分というものを生涯他人に見せないことであり、しかもそれに耐えている力を、誰にも気付かれないことだ。なぜこんなばからしい努力が自分に課せられているのか。もっと他の、たとえば他者を愛するといった責務は、なぜ自分にやって来ないのか。しかし、それが自分だ。どうしてこうなったかはわからないが、自分はもうそうなってしまっているのだ。

グレアム、アンジー、サーニン、マックスの4人は、親に価値を強要され、あるいは親に捨てられ、あるいは親を奪い去られ、あるいは親に否定されたことによって、世界から「はみだし」ている。学校へも行かず共同生活を送る彼らの唯一の望みは「4人いっしょにいること」だが、親元へ帰してやろうという善意や学校へ行けるようにしてやろうという善意が彼らを引き離そうとする。そのたびに彼らは新しい居場所を探しに出発しなければならない。
彼らはグレアムの叔父から仕送りを受けており、食べることに苦しまなくてすむ境遇である。だから彼らの共同生活と放浪は、時として夢の楽園のようである。しかし外の世界は冷たい手触りで不可解に触れてくることをやめない。雪山での遭難と殺人事件からマックスとサーニンの失踪、再会、グレアムとアンジーによる親との訣別を経て、彼らはジャック・クレイマーの養子となる。社会の中にある意味温かく迎え入れられながら、グレアムは自分自身に対する違和感を抑えられなくなっていく。グレアムはかつて雪山で死んだ(マックスが無意識にピストルで殺してしまった)男の義妹、フェル・ブラウンを探し当てる。グレアムはフェル・ブラウンに命じてもらうことによって、この世から消えていこうと考えているのだ。

「はみだしっ子」を読み終わった人は、その結末の唐突さに不可解な印象を受けると思う。物語は最後、自分が雪山で人を殺したのだというグレアムの告白で終わるのだが、グレアムの中で何が解決されたか、あるいは何が断念されたかがよくわからない、というか納得が行かないのだ。三原順のもとにはそのような声がたくさん届いたらしく、わざわざ「オクトパス・ガーデン」という番外編を書いて種明かしを試みている。ところでそれを読んでも、そもそもその明かされている種が腑に落ちない。ということになれば、僕(たち)は何か根本的な読み落としか読み違いをしているわけだ。「はみだしっ子」について書いていくことで、この疑問をもう一度考えてみたい。読んだことのない人にはまことにわかりにくいことを書くことになるだろうが、お付き合いをいただければと思う。

まず、雪山で何があったかを見ていこう。「山の上に吹く風は」という話だ。このときグレアムとアンジーは10歳くらい、サーニンとマックスは7歳くらいである。彼らはバスに乗って雪山に遊びに行くのだが、逃亡している強盗犯にバスジャックされたのがきっかけで乗客全員が遭難してしまう。怪我をしたグレアムは、マックスやサーニンを守らなければと思いながら何をすることもできない。サーニンは救助を求めるため、単独で山を下っていく。ギィ・サリバンという男が錯乱し、グレアム達に襲いかかり、眠っていたマックスは父親に殺される幻影を見て(マックスは父親に殺されかけたことがある)ピストル(自殺した強盗犯が持っていたもの)を発射し、彼を殺してしまう。そのこと自体を夢の続きと勘違いしてまた眠ってしまったマックスを見て、グレアムはアンジーに、殺人は自分が引き受けると言うが、アンジーはグレアムを銃で殴って気絶させ、自分が死体を始末しようとする。結局のところ死体はうまく隠されてギィ・サリバンは行方不明の扱いとなる。
最終的に彼ら4人は全員救出されるのだが、グレアムは何もすることができなかった罪の意識と、痛み止めに使ったモルヒネの副作用で精神に異常をきたしてしまう。グレアムを兄のように慕う甘えん坊のマックスは、何を言っても返事をしてくれないグレアムに拒否されたと思い、衝動的にその場を離れて迷子になる。助けを求めに単身山を下ったサーニンは、仲間が雪崩に巻き込まれたという誤報を聞き、自分に絶望して姿を消す。アンジーは死体を隠したために身を隠さざるを得ず、とりあえずグレアムを彼の従姉のエイダに預けることしかできない。こうして4人は離れ離れになってしまう。

離れ離れになった4人が再会し、また共同生活を始めるまでの物語は感動的である。特にコミックスまるまる1巻を費やしてグレアムとマックスの再会を描いた「奴らが消えた夜」は、この物語の前半のクライマックスである。自分が傷つけてしまったものが、それでもやはり自分を求めてくれていて、自分を許してくれる、その傷の深さが自分の罪深さを訴えながら、こんなにひどい傷を癒してくれるものはお前しかいないのだと、癒してくれるお前がやっと今ここに戻ってきてくれたと腕を広げて迎えてくれる、その許しと回復のシーンは、ちょっと忘れることができない。憶測することを許してもらうなら、ここが作者の初めに思い描いていたクライマックスで、アンジーとサーニンのいかにもあっけらかんとした再会を描いた「裏切者」はエピローグだったのではないだろうか。
ところがそこで終わることはできなかった。ひと一人を殺してしまった主人公達を、そう無邪気に幸福の中に放免してやることはできない。作者にとって主人公達は、そう簡単に扱えるような存在ではなくなっていたという事なのだと思う。

4人での生活を取り戻した彼らは、サマーキャンプやアルバイトといった暮らしに明け暮れる。しかしその頃になってグレアムは、自分たちが人を殺してしまった存在だという思いから離れられなくなっていく。
「窓のとおく」で彼ら4人の家主になる一家は、複雑な感情を抱えている。いつも子供たちを自慢する父親と、それに激しく反発する長男のカール。次男のダニーと母親は、それをびくびくと見守ることしかできない。カールはぐれて学校をやめ、悪い仲間と遊び歩いていると思われているが、実はそれは父親に対する見せかけで、本当は復学して学校に通っている。父親を失望させたい一心から、知人が犯した殺人(爆発事件を起こして守衛を死なせた)の罪をかぶろうとするカールにグレアムは芝居をしかける。
グレアムは誤ってダニーを殺したように見せかけ、激怒してつかみかかってくるカールに、これでもまだあなたが殺人罪を負うなら傲慢だ、と言う。「考えもしなかったようだから/守衛の気持ちや友人の気持ちなんか/あんた自身の気持ちしか」「憎むべき相手を憎ませてやるべきだよ」。ここでグレアムは、明らかに自分たちのかかわった事件の前で行き迷っている。グレアムがカールに浴びせる言葉は、自分たちが選んでしまった道に対する断罪と後悔そのままだ。「あなたはいい/言えばもうそれで済む/でも被害者に近い人々はどうなる」「憎しみも悲しみもあなたが受けてたってるって/いつか真犯人が捕まったら憎む相手を切り換えさせて!/あなたはその人たちの気持ちをもて遊ぶの?」「それとも友達をかばいとおすつもり?」

雪山で殺して(死なせて)しまったギィ・サリバンのことは、誰もが忘れてしまったように物語は進んでいく。実際、マックスはそれを忘れている(アンジーが忘れさせた)のだし、その場を離れていたサーニンもそれは知らないままだ。アンジーとグレアム、彼らを手助けしたアルフィーとシドニー・マーチンの他には、誰も知らない。僕たち読者は当然気にもしていない。実際それは「殺人」と言い得るものなのだろうか。雪山に取り残され、父親に殺される悪夢にうなされる7歳の少年が、自分の首を絞めてくる男に向けて、ひざの上にあったピストルの引き金を引いてしまうことが、ヒトゴロシなのだろうか。アルフィーとシドニー・マーチンは、忘れてしまうべきことだと考えている。アンジーもそうだし、僕たちもそうなのだ。
しかし、グレアムだけは覚えていた。グレアムにとってこの事件はヒトゴロシに他ならなかった。グレアムはマックスのことを「ヒトゴロシ」だと思い、「もう助けてやれない」と思ってしまう。一度はそういうふうに心の中でマックスを突き放しながら、マックスを突き放す自分というものも受け入れることができない。グレアムは自分がギィ・サリバンを殺した人間になることを選択する。原因がどのようなものであれ、死者にとっては殺されたことに変わりはない。ならば犯人は存在しなければならず、裁かれる必要がある。法が裁かないにしても、死者を愛していたものからは裁かれる必要がある。グレアムは、ギィ・サリバンを愛していたかもしれないたった一人の人間、彼の義妹フェル・ブラウンを探し当てる。
自分たちがギィ・サリバンの死体を隠したので、フェル・ブラウンは彼が死んでいることさえ知ることができない。事実を告げて、感情に切りをつけさせるのは自分の義務だ。自分が犯人として名乗り出、裁きをフェル・ブラウンにつけてもらおう。死なねばならないことは当然だが、どのような死に方をするかをフェル・ブラウンに決めてもらおう。グレアムはその考えを実現させようと、準備を進めていく。
ところが、この計画が進んでいく中、別の事件が起こる。マックスと地元の不良の親玉、リッチーとの間にトラブルが発生し、乱闘の中でグレアムはリッチーに刺されて重傷を負う。裁判が始まる。リッチーの弁護人、フランクファーターが登場する。彼は主張する。「一定の危険な状況の中で危険の増大に対し/通常の場合には十分な能力があるとしても/疲労・興奮などの理由により能力を失っていた…ノーマルに敏感でなかったという理由で非難されうるものかということです」「ましてや彼は14歳の少年です/もしみなさんが非難可能性の程度について重大な疑を残された場合…」つまり「事故だったのです」と。

フランクファーターのこの論理は、そっくりそのまま雪山での殺人の弁護に使用できる。ただしフランクファーターは、裁判に勝つことだけを目的に、リッチーがグレアムを故意に刺したことを知りぬいた上で、この論理を提出する。「事故である」ことを陪審に納得させるため、彼はありとあらゆる手管を使う。言葉のあやで事実をすり替え、相手側証人の素行をあげつらい、自分も信じていない可能性を指摘する。そのやり口は性質の悪い弁護士そのものだ。だから、本来グレアムがとらわれなくてはならないような存在ではないはずなのだ。
しかし、グレアムはフランクファーターに深くとらわれてしまう。グレアムは、なぜ陪審がやすやすとフランクファーターの威嚇と誘導に従ってしまうのかを問う。有罪のものを無罪にする方が、その逆よりもいいからか。 「彼ら(陪審)は本当にリッチーが彼らと共存していくのに適していると認めているの?」フランクファーターは答える。「彼らは自分が社会と共存していくのにふさわしい人間だと思っている!」グレアムはまた問う。「本当にそれが彼らのものならば彼らは誤るかもしれない虞れや責任に耐えて嗅ぎ分けようと出来るはずだね」フランクファーターは答えない。また別のところでグレアムは問う。なぜあなたは、実際に犯罪を犯してしまおうとする人たちの手をとめる手立てになろうとしないのかと。フランクファーターはこれにも答えない。飛びぬけて優れた知性を持ち、人間への洞察力も持ったこの男は、結局他人に言うべきものを何ひとつ持てないのだ。そのくせ自分にとって都合のいい部分でだけ他人に対して能力をふるい、動かそうとする。グレアムは、養父のジャックに言う。「ボクはフランクファーターにならなれる」。

正直、僕にはなぜフランクファーターがグレアムにとってそれほど大きい存在なのか、よくわからない。そしてきっと、それがわからない限り、「はみだしっ子」の結末もわからないのではないかという気がしている。裁判が終わった時、グレアムは「グッバイ!フランクファーター!」と言った。裁判はグレアムにとってフランクファーターとの戦いだった。その後も繰り返し、グレアムはその名前を口にする。「もうフランクファーターに会わなくてもいい…」「ボクは幾度か考えた/フランクファーターならボク達の雪山での犯罪をどう言うものか」「ジャック…ボクはフランクファーターとなど話さなければよかった…」そして物語のクライマックスで、グレアムは「フランクファーターはいやだ!!」と叫ぶのだ。
 
グレアムはなぜリッチーが(トラブルを起こした当の相手のマックスではなく)自分を刺したのか、その問にフランクファーターがどのような答えを与えるのかを知りたがっていた。無職同然で国に金をたかって生きる父親を見て育ち、恵まれたもの、優れたもの、一切をねたみ、敵視する少年。みんなに恐れられ、嫌われる札付きの不良。義父とはいえ裕福な父親を持ち、何不自由ない生活を送っている自分は、彼に何かを負っているのだろうか。ここに自分があるということだけで彼から何かを奪い、傷つけているのなら、少なくとも彼の側には刺す理由があったことになる。リッチーにわなをかけ、再度自分を襲わせることに成功したグレアムは、法廷でリッチーが「なぜグレアムを刺したか?」と問われるのを期待する。

押しつぶされてねじまがった心が、ねじまがっていることを認めようとしないまま自分の正しさを主張しようとするなら、社会の規範に受け入れられない行動をとることも、当然ありうるのだ。それを社会が許さないことも当然なのだ。社会は彼を矯正しようとするだろうが、歪みの上に歪みを重ねるか、踏みつぶすことしかできないだろう。リッチーはなぜグレアムを刺したのか、グレアムは自問し「彼はあなたではなかったからです/彼はボクではなかったからです/彼は彼以外のものになれなかったからです」と答えてみる。
しかしリッチーはそんな言葉で答えることはできないだろう。フランクファーターはそんな言葉で答えようとはしないだろう。ではどう答えるのか。人間の行動をすべて、自己正当化の欲望から語ってみせる男、フランクファーターは、どのようにして歪んだ心を正当化し、犯罪もまた仕方がない、いや、そこに犯罪と呼びうるものなどありはしないのだと言って見せるのだろう。それとも彼は真顔になって、すべてを論証してくれるのではないか。事故などではなくて、おまえに帰すべきものがあるとしても、それは誰もが同じように抱えながら生きているもので、おまえはある大事なことに気付かずにいるだけなのだ、というふうに。フランクファーターは答えない。グレアムはノートにこう書き付ける。「だがボクはおまえ(リッチー)を可哀想だとは言わない! 持てる者が彼らの手段で持ち続けようとする事が汚いというなら おまえがおまえの手段で持とうとする事も同じく汚いのだから」つまり、自分も汚いのだと。

裁判を終わったグレアムは、当初の計画に戻り、フェル・ブラウンに会う。あなたの義兄のギィ・サリバンを自分は殺したと告げ、あなたの望む方法で死ぬから、死に方を決めてくれと言う。フェル・ブラウンは「あなたの血なんていらない」と言う。グレアムは問う、あなたにはそれだけのものなのか、義兄の死など、殺されたとわかっても忘れてしまえる程度のものなのか。義兄さんは可哀想に事故で死んでしまった、それでいいのだとフェル・ブラウンは答える。あなたの血などほしくない、その血の重さの分だけ、義兄さんを責めてしまう。それとも、もっと他のことを言って欲しいのか、たとえば貴方を殺したいほど兄さんの死を悲しんでいると。私はそんなに愛情深くも強くもない。そしてグレアムに問う。「貴方なら誰かにそこまで愛して欲しいの?誰も貴方をそんな風には愛してないの?」
この問いは確かにグレアムの痛いところを突いているようだ。「はみだしっ子」の中には、隠している自分の心の中を誰かが気付いてくれているというエピソードが多い。それも気付いてもらっていることに自分は気付いていないという形のものが多い。少々はしたないと思えるほどだが、これを知ってもらわなければ自分を理解してもらうことができないという事柄を絶対に沈黙するという、どうしようもない努力を、かろうじてバランスをとって支えていくための代償だったと思える。
自分の苦しみに気付いてくれ、マックスを守るためにギィ・サリバン殺しを引き受け、しかもそれを誰にも告げず、そのことによってフェル・ブラウンを苦しめる事まで選び取っている自分の苦しみに気付いてくれ、このままギィ・サリバン殺しが闇に消えて行くなら、自分の苦しみは永久に自分が背負っていくしかない。この悲しい英雄を英雄の姿のままで、あなたの怒りによって殺してほしいのだ。しかも自分は犯人ではないというそのことを、あなたに語らないままに知ってほしいのだ。無言のままそう訴えるグレアムに、フェル・ブラウンは「もういいわ…自由になって…」と告げて去っていく。

死を命じることを拒まれ、さらに自殺もアンジーとジャックに阻まれたグレアムは、何も感じる事をやめ、何にも関わることをせずに生きていこうとする。アンジーやサーニン、マックス、さらに義父や義母の気持ちにも、いっさい応えようとしない。なんとかグレアムの気持ちを引き立てようと気を配るアンジーを突き放す。「けどボクは脱出口なんて要らない! ここから抜け出したいなんて希いもしないんだよアンジー」その口調はまるで勝ち誇っているようである。「わかるか?アンジー ボクの…善意の欠如がどんなところまで来てるか わかるか?」アンジーは何も言えずに立ち止まるしかない。

なぜ善意を失ってしまったのか。死を失ったからだ。「自分の内には生き続けてゆきたい程のものもないのに」生きていくことなどまっぴらなのだ。生きていくことはグレアムにとって無意味で苦痛なものになってしまっていた。人を死に至らしめ、その事実にふたをしたという意識が、しかもヒトゴロシであることは自分が選び取ったのだという自覚が、生きていくことに喜びを得ることを禁じたのだ。得ることを禁じた喜びが、それでも堰を越えてあふれてくる。それを許せないと思う気持ち、その幾度ともないくり返しが回復不可能と思えるほどグレアムの気持ちを疲れさせたのだ。
善意に満ちた優しい少年であるグレアムにとって、他者の気持ちをくみとり、傷ついた心を慰める事は、自分にとっても喜びだった。その喜びも許すことができない。そうした不安定きわまりない状態から逃れ出るために選ぼうとした死を奪われたなら、喜びを得る機会から身を引き離していくしかないのだ。近しい他人を、とりわけアンジーを、慰め安心させてやることでまたやって来る巨大な自責の念から遠ざかることなしに、グレアムは生きていくことはできなかったのだ。
そんな時、かねて因縁のあった牧師がグレアムを訪ねてくる。この牧師はサーニンが好きだった自閉症の子供マーシア・ベル(彼女のことをサーニンはクークーと呼んでいた)をサーニンから引き離し、施設に隠し、結果として死なせていた。あれはどうしようもなかったのだと言い訳をする牧師に、グレアムは、そんなことはサーニンか義父に言ってくれと言う。あなたも僕も亡霊だ、その時から現在にも過去にも生きていなくなっている亡霊だと告げる。つかみかかる牧師ともみあう中、グレアムの足が牧師の足にかかり、牧師は二階の窓から転落する。「君のせいじゃない」「一瞬のことだ、何ができた」「事故だ」という声が、フランクファーターの「事故だったのです」という声に重なる。グレアムは「フランクファーターはいやだ!」と叫ぶ。

窓から落ちた牧師を追って、グレアムは走る。「見るんじゃない」「気にするんじゃないよ!事故なんだ」という声を振り切って階段を走り下りる。「ボク行かなきゃ!」「今度こそ!!」「行くんだ!!」「今度こそ!!」行こうとするのは取り返しの付かない事が起こってしまった場所だ。マックスが銃弾を撃ち込んだ場所であり、自分が牧師を墜落させた場所だ。自分のせいじゃない、いまさら何ができる、悪いのはむこうだ、どうしようもなかったんだ。そういう内心の声に負けて、ギィ・サリバンを見捨て、マックスを突き放した。誰もが免責してくれるだろうその行為を、自分だけは忘れることができず、自分は自分からどこまでも遠ざかっていった。そこへ行き、立ち会わなければならない。自分に関わりがないなどと思うことは、自分が許せない。自分が支払わねばならないと思うだけのものは自分が支払うのだ。
フランクファーターがグレアムにとって何なのか、僕にも少しわかってきたように思う。それは「本当は嫌なんだろう、知らん顔していなくなってしまえよ」とささやく者だ。「誰も咎めやしない、困る奴も居やしない」「忘れてしまえ、すぐに納得できるようになる」「自分の損になること、したいわけないじゃないか。自分が許せないなんて嘘っぱちさ」とそそのかし、「文句言う奴がいれば、おれが言ってやるよ、お前たちだって似たようなもんだろ、反省してるんだから許してやろうよって」とかばうふりをする者だ。それはなし崩しに自分を許していこうとする内心の声である。でも本当は自分で許せてなくて、罪の意識は時と共に重くなり、どこにも行けない者に自分を変えてしまう。だからグレアムはフランクファーターを拒否し、自分が許せる自分に帰っていこうとする。
この事件で義父のジャックは、グレアムの心が完全に閉ざされてはいないことに気付き、「おまえはもう何がどうなっても構わないはずじゃなかったのか?」と問う。もしそうなら、おまえには選ぶべき道がある。いや、選びようのない一つしかない道の上に、おまえはやはり立っている。おまえが心の中に抱えているどうしても自分を欺けないもの、それを選ぶことしか、おまえには本当はできない。ジャックはグレアムに「おまえが自分自身をもっと大切に扱ってくれる事の方が みんな余程喜ぶだろうに」と言う。グレアムも、自分の中に残っていたこの気持ちとともに、自分は生きていくしかないと思い知り、力を振り絞るようにして、また周囲の人間と接することをはじめる。そしてある日グレアムは、アルバイト先の店のみんながいる前で、ジャックに、自分が四年前にフェル・ブラウンの義兄を射殺したのだと告げる。

グレアムはとうとう雪山の殺人を口にした。アンジーは前からグレアムの苦しみに気付いていて、雪山で何があったのかを問い詰めるジャックに、それは言うことができない、それはグレアムが本当は一度は誰かに言ってみたかったことなのだからと答えたことがある。しかしグレアムは、そういう形で言わなかった。グレアムが本当は言ってみたかったのは、マックスが起こしてしまった殺人を自分が引き受け、それを誰にも告げずにいることの苦しみだ。そして殺人が誰にも知られずに終わるのなら、この苦しみも誰にも知られずに終わってしまうことの空しさだ。グレアムはそれを言うことを選ばなかった。
グレアムが選んだのは、雪山の殺人を自分の犯罪として認めること、つまり自分がマックスの身代わりとなって罪を背負ったという事実を永久に封印することだった。しかも殺人を告白した以上、警察をはじめとするありとあらゆる質問に、説得力のある説明を行わなければならない。サーニンやマックスにも、なぜ今まで秘密にしていたかということを初めとして、疑問の余地のない説明をせねばならない。唯一真実を知るアンジーの協力も求めることなく、この選択は行われた。
グレアムは逃げ道の一切を拒否し、雪山の事件を身に引き受けた。秘密を抱え込んだままその秘密を隠し通すことに耐え、しかも耐えている力自体を誰にも悟られずに生き続けていくことを選んだ。他者とのかかわりに誠実であり、誰に対しても思いやりを持ち、仲間達を全身で守る。物語のはじめ、グレアムはそういう少年だった。多くのものを抱え込み、自分には担い切れないと思い、投げ出そうとしたが、投げ出して何も残らなくなった自分にも耐えられなかった。
グレアムは、もう一度戻っていこうとする。物語の最後の夜、サーニンはグレアムから、クークーの死に至る経過を教えられる。サーニンを求めて塀を乗り越え雨の中を森へと歩いて行ったクークーの死が、しかしクークーにとってはサーニンと再会できる喜びに満ちた旅立ちだったことが明らかになっていく。サーニンはやっとクークーの死を受け入れ、笑顔を浮かべる。かつてのグレアムは、その笑顔に満たされることができた。その時の自分に帰ることはできないのだけれど、グレアムは今の自分として、そこに立とうとすることを選んだ。満たされることができないにしても、自分の選びとるべき最も良いものは、そこにしかないと決意をして。

(回りくどく書いてきて、結局はじめに思ったところまでは行けなかったようです。フランクファーターにはグレアムがとらわれてしまう何かがあるはずで、だからあれほど失望し嫌悪するのだと思いますが、それが何かはまだわかりません。なぜ雪山の事件にグレアムがあれほど強く縛りつけられているかもわかりません。それと自分で理解できる部分だけで「はみだしっ子」を読んでしまい、他の大事な部分を放りっぱなしにしていることも自覚せずにはいられません。しかし、書く前よりもいくらか理解ができるようになったということだけは確かに言えるので、ここに載せてもらおうと思います。ご意見がいただければ幸いです)