美しいものが片隅にうずくまっている 暇刊!老年ナカノ日報② 2018.5.30
まだ老人ではない
老年とか言ってるけどぼくは59歳と11か月なんですね。65歳以上が高齢者ということだから、ぼくはまだ老人でも高齢者でもない。じゃあなんだということになると困る。辞書で見ると「中年」はおおむね50歳くらいまでらしくて、先日嫁さんにぼくは中年でいいだろうかと聞いたら「図々しい」と言われました。
このまえ古本ながいひるで有山じゅんじのライブがあって、ライブまでの寸暇を惜しんで有山さんはいっぱいやりたいと言う。主催者が友達だったもんで、二人にくっついて飲みに行かせてもらいました。飲みながら「40年位前に有山さんのライブに初めて行って、そのときキムチは辛ければ辛いほうがいい、みたいな曲をやっておられて」とか言ってたら有山さん「その曲、今日やりましょか」と言ってくださいました。それでライブになって「キムチの曲をリクエストしてもろたからやります」に続けて「この曲をリクエストしてくれる人、何人かおるんですが、みな後期高齢者っちゅうか…まあオッサンやね」と言う。有山さんよりは若いんだけどな。でもうれしかった。
中年酔っぱらいは美しいか
そのライブの途中、「何かトム・ウェイツのうたを」とリクエストがあり、何をうたうのかなと思っていると、有山じゅんじは「オール55」に自作の歌詞をつけてうたいました。これはトム・ウェイツのファーストアルバム「クロージング・タイム」の1曲目で、ぼくが聞いたトム・ウェイツの中で一番好きなアルバムの一番好きな曲です。曲のタイトルの意味はわかりませんが、アルバムタイトルの意味は多分「店じまいの時間」で、飲み屋が閉店する時間、俗語にしちまえば「カンバン」なんだと思います。
だいぶ前から酒にも深夜にもめっきり弱くなり、追い出されるまで飲むこともなくなりましたが、以前はときどき追い出されていました。友人と何人かで飲んでいて夜の街に追い出され、まだ帰りたくはないしこれからどうしようか、あそこなら開いているかもと暗い道を歩いて行く。ふらふらと蛇行していたり、小走りになったりして、ずいぶん楽しくて寂しかった気がします。寂しくて友達たちがいとおしくて心細くて優しい気持ちだった。
さびしくて優しいもののことを皆さんが美しいと呼んでくれるなら、店を追い出された中年男の集団は、確かに美しかったのだと思います。
ぼくが知らずにいる美しいうた
そのライブの次の日、ぼくは三豊市へ「まちあわせ」というコンサートを聞きに行きました。友部正人を中心に何人もの人が出演するんですが、有山さんはこの日は金森幸介と二人で演奏しました。その中に金森幸介がむかし作ったという「夢は色あせて僕は年老いて/でもまだへこたれちゃいない」というリフレインを持つ曲が耳に残りました。家に帰ってユーチューブを見たりしてましたが、歌詞を通して読んですっかりいかれてしまいました。「もう引き返せない」という曲です。
いくつも時代が過ぎていた
はがゆさばかりを後に残して
誰も傷つきはしなかったけれど
誰かが痛みを甘えを知った
夢は色あせてく僕は年老いてく
でもまだへこたれちゃいない
夕陽を追いかけてく 奴の唄が聞こえる
もう引き返せない
自分たちが抱いた夢が、自分たちの手の中で崩れていく。隣を歩いていた友達が、いつの間にかとても遠いところにいる。それに気づかされた時のやりきれなさ、さびしさ、苦しさがこのうたの中にある。特に「君は押し黙る僕はいつもただ口ごもり/吹き抜けていく風をじっと見ている」というところを、ぼくは胸苦しさなしに聞くことができません。しかしこのうたは最後のリフレインを「もう引き返さない」と言いかえて終わります。
「奴」とはもしかしたら遠ざかっていった友達その人のことかもしれない。でも自分は、そのとき渡されたものを手放すことをせず、一人でも歩いて行こうと思い定める。決意といってしまえばえらく簡単なんだけど、この決意はとても悲しくて強い。悲しみに包みこまれた力というか、さびしさに寄り添われた意志というか。
このうたをぼくはおそらく何十年も知らずに過ごして、先日はじめて知りました。こんなふうにいくつもの美しいうたを、ぼくは知らずに生きているのだと思います。