変わっていくということ          暇刊!老年ナカノ日報⑭ 2019.9.26

久しぶりに何か言おうとしても泣けてきて

先日「嵐電」という映画を見て、本気で胸をえぐられる思いをしました。あがた森魚が音楽をやっていて、ほとんどそれだけを目当てに見に行ったんですが、それだけじゃありませんでした。
筋はとても紹介しにくいので、たぶん不正確に書きますが、心が離れてしまっていると感じている夫と妻、想いを寄せる相手に心を閉ざしている女と不意に姿を消してしまう男、一目ぼれの男を追いかける女と追いかけられている男という3組の男女が、想いを喪失し、少しずつ回復していく物語と言えばいいでしょうか。
深夜の嵐電(京福電鉄嵐山線)に、狐女と狸男が車掌をしている便があり、想いを寄せ合う男女がそれに乗ると別れ別れになってしまうという都市伝説が物語を動かしていきます。この3組の男女はそれぞれにその電車に乗ってしまうのですが、その女車掌は、乗ろうかどうか戸惑っている乗客に「この電車に乗ればどこまでだって行けますよ」と語りかけます。しかしこの「銀河鉄道の夜」を強く示唆する言葉に導かれた男女は、遠く隔てられてしまう。それとともに、その理由は、その電車に乗った者は「変わってしまう」からだということが次第に明らかになって行きます。

物語はやがて、3組の男女が次第に想いを回復しあっていく(一目ぼれ女とほれられ男の場合は想いをはぐくみはじめる)ところで終わるのですが、最後、嵐電の信号機か何かがかわしているらしい男女のナレーションが流れます。今夜は狐女と狸男が乗った電車が来る日だ、その電車に乗ってはいけない、「そうでないと、私たちは変わってしまうから」(少し違っているかもしれません)。ぼくは何か言おうとすると涙で言葉が詰まる状態になり、どうしようもありませんでした。その日は監督と俳優の舞台挨拶とサイン会があり、長蛇の列に並んで鈴木卓爾監督のところに行き、「最後の『そうでないと、私たちは変わってしまうから』というところがとても良くて」やっとの思いでそれだけ言いました。本当はそれに続けて「むかし橋本治が、時間に隔てられて自分たちが変わってしまい、そのためにすれ違っていくというのが、いま存在できるメロドラマだというようなことを書いていて、それを思い出さずにいられませんでした」と言いたかったんですが、言葉が出ませんでした。

ぼくたちは変わっていく

ぼくが思い出していたのは、橋本治が40年前に書いた「THE WAY WE WERE」です。これは「天使のはらわた・赤い教室」という映画のレビューで、「秘本世界生玉子」に入っています。このたび本当に久しぶりに読み返してみると、ぼくの記憶よりもかなり複雑な議論が展開されていましたが、基本的なところは違っていないと思えました。なので断片的に引用させてもらいます。

「メロドラマの本質は〝すれちがい〟である」「すれちがうということは、互にすれちがうことである。すれちがうということによって、すれちがう二人の男女は等価でありえるということなのである」「人の自立を可能にするものは、ただ〝時間〟だけである。人の自立は、時の経過をこそ必要とする」「そして自立した後に残るものはそうした〝事実〟がもたらす〝せつなさ〟なのだ」「流れ去ってしまった〝時〟は如何ともする術はない。そして流れ去った時の経過の後に自立しえた自己のみが残るのである。すべてはただ〝せつない〟のである」

この文章からあのとき言おうとしたようなまとめに至るというのは、どうもやはり十分な読みではないなあと思えるのですが、ぼくが最終的に受け取ったのはまぎれもなくあの「時間に隔てられて自分たちが変わってしまい、そのためにすれ違っていく」であり、ぼくにとっては、ものを考えるときの土台になっているような視点でした。そこに「そうでないと、私たちは変わってしまうから」が不意打ちし、ぼくは何十年分かぶりにこの言葉を抱きしめている人に出会った気がして、泣けてしまったということみたいです。

ぼくたちはまた出会うだろう、とボブディランはうたった

ところで、「どこまでだって行ける」電車に乗ると「変わってしまう」というのはどういうことでしょうか。ぼくたちは時間の流れの中でいやおうなしに変わっていくのですが、そこには、自分であり続けようとすることがかかわっています。もともと二人の間に存在していた位置の違いや方向の違いが、二人がそれぞれに今ある自分の方向を推し進めていくにつれ、二人をどうしようもないところまで引き離していく、これが橋本治の提示したメロドラマなんですが、彼はそれを「自立」として提示しました。ではその電車に「乗らない」というのは何を示しているのでしょう。

「銀河鉄道の夜」には「あなたがたは、どちらへいらっしゃるんですか。」「どこまでも行くんです。」「それはいいね。この汽車は、じっさい、どこまででも行きますぜ。」とか「こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ」とか「(ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行く人はないだろうか)」といった会話や独語がいくつも出てきます。このどこまでも行く汽車は、天上をさえ通り越して、たぶん黄泉の国をも過ぎてジョバンニを連れて行きますが、その途上ですべての人と別れて行かねばならない。カムパネルラまで去って行きます。「ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。」しかし宮沢賢治はここでジョバンニを汽車から降ろし(目覚めさせ)ます。

「嵐電」の終わり近く、心を閉ざしていた女と消えてしまった男は、出会った場に吸引されるかのように再会し、引き裂かれる直前に取り交わした言葉を変奏します。それは寺山修司が繰り返し引用した「起こらなかったこともまた歴史のうちなのだ」を思い出させます。すべてのことは復元不可能だけど、すべてのことは変奏が可能である。ぼくたちは変わっていく。しかし変わってしまったもの同士も、もう一度出会うことができる。それはつまり、なくしてしまった物語を、変わってしまったぼくたちの物語として、紡ぎ直すことだ。
たぶんぼくたちは、「どこまでも行ける電車」に乗ろうと乗るまいと変わってしまい、自分であろうとし続けることで隣にいる人と遠く引き離されてしまう。狐女の車掌は、ぼくたちを陥れようとしているのではなく、ぼくたちが進むしかない道を、その道をどうしても進んで行くしかないことを、示しているだけだ。どこまでも行ける電車に乗る必要はない。いずれにしてもぼくたちは変わり、引き離され、もしかしたらもう一度出会い、あるいは二度と会うこともないまま、あり得たかもしれない物語を紡ぎ直す。「その電車に乗ってはいけない」という声を胸に潜めながら。そんなふうにぼくはいま、「嵐電」のラストを思い浮かべているわけです。